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東京高等裁判所 昭和42年(う)2041号 判決 1968年3月18日

本店

厚木市旭町三丁目九番一八号

武相砂利株式会社

右代表者代表取締役

吉村武雄

本籍

厚木市中町二丁目六〇三番地

住居

厚木市中町二丁目九番六号

会社社長

吉村武雄

昭和三七年一〇月一日生

右の者らに対する法人税法違反被告事件について、昭和四二年五月三一日横浜地方裁判所が言い渡した各有罪の判決に対し、被告人武相砂利株式会社及び被告人吉村武雄からそれぞれ適法な控訴の申立があつたので、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

被告人武相砂利株式会社を罰金二、〇〇〇万円に、被告人吉村武雄を懲役六月に、処する。

但し被告人吉村武雄に対し、この裁判確定の日より二年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人武相砂利株式会社及び被告人吉村武雄の各弁護人定塚道雄成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する検察官の答弁の趣意は、東京高等検察庁検察官検事古谷菊次作成名義の答弁書記載のとおりであるから、いずれもこれを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。

所論は結局原判決の量刑不当を主張するに帰するが、その量刑不当の事由として、原審証人堀口一已、同西山三吉の証言によつて明らかな被告人吉村に有利な情状を斟酌すべきこと及び本件犯行後被告人吉村が、多額の納税を誠実に履行して来た努力を考慮されるべきであるという外、なお法律上も次のとおり量刑を不当ならしめている点があると主張する。即ち(一)本件に適用されている昭和四〇年法律第三四号による改正前の法人税法第四八条第一項(所論は右改正後の法人税法第一五九条第一項を掲げているが、原判決の適用法律と対照すれば、改正前の法人税法第四八条第一項と記載すべきところを誤記したものと認める。)は「詐偽その他不正の行為により・・・・申告をなすべき法人税・・・を免れ・・・た場合においては、法人の代表者・・・・でその違反行為をなした者は、これを三年以下の懲役若しくは五〇〇万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」と規定しているが、この「詐偽その他不正の行為により」(所論は改正後の法人税法第一五九条第一項に従いに従い「詐りその他不正の行為により」との規定であるとしているが、この両者を特に区別する必要はないもののと認める。)というのは、犯罪の構成要件として不明確で、罪刑法定主義を破壊するものであるから、かりに右規定が無効でないにしても無効に近いものとして取扱うべきであり、従つて同条を適用しても、その科刑を最低限に止めるべきところ、原判決は、被告人武相砂利株式会社(以下、単に被告会社と畧称する)に対し罰金二、五〇〇万円、被告人吉村に対し懲役八月、五年間執行猶予の重刑を科したが、被告会社の罰金額を極度に減額し、被告人吉村の執行猶予期間を短縮すべきである。(二)原判決は、被告会社に対し、改正前の法人税法第五一条第一項の両罰規定を適用している。しかし同条は、法人に元来犯罪能力がなく、刑法は原則として法人の刑事責任を認めていないに拘らず、法人を処罰するとしているもので不当であるのみならず、他人の行為によつて処罰されるという不合理な制度であるから、当然無効と断定すべきである。そうとすれば原判決は被告会社に無効な法律を適用処断したもので、その措置には疑問がある。(三)原判決は被告会社に対し罰金二、五〇〇万円を科したが、右は税法の精神に反するだけでなく、重加算税その他税法上の制裁が既に科されている被告会社に対し、更に前記のとおり著しく高額の罰金刑を科することとなり、憲法第三九条の精神に反するから、被告会社に対する罰金刑を軽くすべきであるというのである。

よつて按ずるに

(一)改正前の法人税法第四八条第一項の「詐偽その他不正の行為により」というのが、法律と道徳、宗教とを区別しない不明確な規定とはいえない。法律の規定において不正というのは、法律的観点から行為を評価して決せられるべき事柄であつて、道徳的規範又は宗教的規範に牴触する行為をもつて、同条にいわゆる不正の行為としているものではない。又「詐偽その他不正の行為」と規定していることからみても、不法行為のような権利侵害の行為を直ちに同条にいわゆる不正の行為としているものでないことも明らかである。してみれば同条の規定が法と道徳、宗教の別を濫るもののように主張し、犯罪構成要件が不明確であるとして、罪刑法定主義を破壊すると非難するのは理由がなく、従つて同条を無効に近い取扱をなし、その所定刑の最低限の処罰に止めるべきであると主張する論旨は、その前提において失当である。

(二)法人の犯罪能力に関する学説上の争いはさておき、法人を処罰する必要が存することは否定し得ない。当裁判所は、いわゆる両罰規定が、「行為者の外なお法人を処罰する」旨規定したことが学理上不当な所以を理解し得ないのみならず、実際上かかる規定を無効視することが妥当ではないと考えるものである。又所論はいわゆる両罰規定が他人の行為によつて法人に対し刑事責任を問う不合理な規定であると主張する。しかし両罰規定の法意を正当に理解すれば、所論のような非難は却つて失当である。論旨が引用している最高裁判所昭和二六年(れ)第一四五二号昭和三二年一一月二七日大法廷判決も、旧入場税法昭和二二年法律第一四二号による改正前のもの、第一七条の三につき、同条は、興行場の経営者又は主催者たる人の代理人、使用人その他の従業者が同法第一六条に違反した行為に対し、右経営者又は主催者に対し、行為者等の選任、監督、その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定した規定と解すべきである旨判示している(なお最高裁判所昭和三四年(あ)一〇〇〇号昭和三七年三月一六日第二小法廷判決参照)。右判例の趣旨はたんに入場税法のみならず他の税法上の両罰規定の法意としても妥当であり、当裁判所は、本件改正前の法人税法第五一条第一項に関しても、前記判例の趣旨を尊重し、これと同一に理解すべきであると考える。そうとすれば本件犯罪の行為者である被告人吉村が、被告会社の代表者代表取締役であることに鑑み被告会社が被告人吉村の違反行為を防止するに必要な注意を尽したことについて証拠上みるべきものがない本件の場合、被告人吉村の違反行為によつて被告会社が処罰を免れ得ないことは当然である。されば原判決が被告会社に対し改正前の法人税法第五一条第一項を適用し、これを罰金刑に処したことはもとより正当で、何等非議すべき点はない。論旨は理由がない。

(三)原判決によれば、昭和三八、三九、四〇年度の三か年における被告会社の真の総所得金額は合計一億八、六四三万三、七三七円であるのに対し法人税申告による所得金額はその一割四分五厘強の合計二、七一九万七六一四円であつて驚くべき過少申告と認められ、従つて法人税が本来前記三か年で合計七、〇四九万四、七九〇円を課せられるべきところを、僅か九九八万五〇四〇円を納入したのみでその余は免れていたものであつて、法人税ほ脱額は累計六、〇五〇万九七五〇円に達することからみても、原判決が被告会社に罰金二、五〇〇万円を科したことが必ずしも不当に高額であり、税法の精神に反するものとは認められない。所論は、被告会社に対する重加算税等の賦額の三〇パーセントに及ぶとして憲法第三九条の精神に違反する旨主張するが、結局は最高裁判所の判例をかれこれ論議するだけの事であつて、理由がない。(なお本件起訴にかかる税額と被告会社が納入を命ぜられた税額との不一致は、本件起訴税額にはほ脱の犯意に結びつく所得のみを挙げたことから生じたもので敢て異とするに当らない。)

されば以上法律上問題点として指摘する論旨はすべて量刑不当の事由とは認め得ないところであるが、更に進んで被告会社並びに被告人吉村の情状について記録を調査し、当審における事実の取調の結果をも参酌して勘案するに、本件は前記のとおり実際の所得の一割四分五厘強の申告をしたのみであつて、甚だしい過少申告による法人税ほ脱の事件であるが、そのような過大な法人税ほ脱を生ぜしめるに至つたのも、被告会社は従前神奈川県下の河川の砂利を採取してその業を営み来つたものであるが、河川保護の見地から河川の砂利採取が禁止せられ、陸堀りに転換せざるを得ないこととなり、そのため多額の資金を要することになつたからであること、被告人吉村は本件犯罪発覚後、自己の非を深く反省し、国税庁の査察調査に当り、質問には素直に応じるし、帳簿の検査なども渋滞した気配もなく、法人税法違反事件としての規模は小さいとはいえない本件にあつて、その調査は思いの外進渉して、昭和四〇年一〇月一四日に着手した調査が翌四一年二月一〇日には完了したこと、その他被告会社並びに被告人吉村において、納入を命ぜられた税額を誠実に納入して来て、昭和四三年二月当時にあつて納入計画の八五パーセントの納入を終つていることをも考量すれば原判決の被告会社に対する罰金二、五〇〇万円及び被告人吉村に対する懲役八月五年間執行猶予の裁判はいずれもその刑がやや重きに過ぎると認められるから論旨は結局理由があり、原判決は破棄を免れない。

よつて本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第二項により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により当裁判所において直ちに自判するを相当と認め、次のとおり判決する。

原判決が適法に認定した事実に法律を適用するに、被告人吉村の所為は、昭和四〇年法律第三四号法人税法付則第一九条により、同法によつて改正された以前の法人税法第四八条第一項に該当し、刑法第四五条前段の併合罪であるから所定刑中懲役刑を選択し、同法第四七条、第一〇条により犯情の重い原判示二の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内において被告人吉村を懲役六月に処し、情状に鑑み刑法第二五条第一項第一号を適用し、この裁判確定の日より二年間右刑の執行を猶予し、

被告会社については前記改正前の法人税法第五一条第一項、第四八条第一項の外、同会社の免れた法人税額がいずれも五〇〇万円をこえる場合に当るから、同法第四八条第二項をも適用し、免れた本件法人税額に相当する金額の範囲内において罰金刑に処すべきところ、以上は刑法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四八条第二項により、前記各罰金額を合算した金額の範囲内において同会社を罰金二、〇〇〇万円に処することとし、主文のとおり判決する。

検事 古谷菊次 公判出席

(裁判長判事 松本勝夫 判事 山岸薫一 判事 石渡吉夫)

昭和四二年(う)第二〇四一号

控訴趣意書

被告人 武相砂利株式会社

被告人 吉村武雄

右両被告人に対する法人税法違反被告事件の控訴の趣意は、次のとおりである。

昭和四二年一〇月二五日

弁護人 定塚道雄

東京高等裁判所第九刑事部御中

控訴趣意

被告人両名の本件控訴の趣意は、もつぱら刑事訴訟法第三八一条の刑の量定が不当であることを理由として控訴の申立をするばあいにあたる。両名のうち武相砂利株式会社に対する刑の量定の不当を是正せられんことを求めるものである。

原判決は刑の量定が不当であつて破棄をまぬかれない。

第一 原審証人堀口一已 同西山三吉の証言について

原審証人堀口一已は、現在厚木市議会議長で古くから吉村武雄を知つているものである。同氏は被告人吉村武雄が吉村産業を作り農機具製造をしていたが、その企業の負債整理をやりその資金難中に武相砂利設立に当つていたこと、昭和二七年に武相砂利株式会社を設立した直後から昭和三十年頃にかけて長年月どん底の苦境にあつたにもかかわらず、そんな際でも不法を行わず債権のごまかしをしないし、全財産を投出して始末をつけた。それを友人として知つている。私利をはからず、常に公共に奉仕する精神で行動した。訴追を受けるなど想像もできない。商工会議所副会長、消防団長、中小企業振興委員長などをし、厚木の発展のための功労者であつた。それで、厚木市としても厚木の功労者に報いる趣旨で、吉村氏(武相砂利)が苦境にあつた昭和三十年頃氏に市所有の砂利採堀鉱区の払下げを行つたのをはじめ、恩情ある処置を取つたほどであつた。という意味のことを証言したのであるが、これを原審証人調書の要旨を左記することによつて示すこと、援用することを許されたい。

原審証人 堀口一已氏(厚木市議会議長)調書の要旨

問 証人は吉村武雄氏を何時頃から知つていますか、

答 昭和十七年頃、大平洋戦争中から知つて居ります。当時私は隣村、依知村村長をして居りましたが、吉村さんも隣りの厚木町の有力者であつたことから知合いになり、今日に至つて居ります。

問 その後、依知村と厚木町は合併されたのですか、

答 そうです。昭和三十四年頃合併されて厚木市となり、私は市会議員議長も何期か勤めました。

吉村さんも厚木市の商工会議所副会頭、消防団長、中小企業振興委員長その他の公職に就かれましたので、引きつづき交渉をもちつつ、今日に至つて居ります。

問 吉村さんは当時どんな事業をやつて居りましたか、

答 昭和二〇年八月の終戦までは、横須加鎮守府専属に砂利の納入をやつて居られたと記億しますが、終戦直後からは食糧増産のお手伝いをするのだと言つて、吉村産業株式会社という会社を設立し、農機具類の製造を始められ、一時は従業員も二〇〇名位になつて、社業隆盛であつたように記憶しています。

問 その会社の農機具製造販売業はその後どうなりましたか、

答 共産党員ないし左翼分子が社内に入り込み、過激なストやサボの連続で、外部団体も赤旗を立てて入り込むようになり、職場放棄がつゞいたため、終に倒産してしまつたように思います。

倒産は昭和四二年頃であつたと記憶します。

問 倒産後の整理について証人の知つていることを述べて下さい、

答 昭和二四年の倒産後二年余り整理に当られたのですが、非常に私が感心致しましたのは、その負債整理の態度でありました。債権者に対して債権のごまかしをしないし、吉村個人の私財は凡て投出して始末をつけるという風で誠意ある態度でした。世間一般に迷惑をかけないように、家族の困窮も意に介しないという態度は、私のみならず、友人一同を感嘆させるものがありました。今回の国税局への納税振りと規を一つにしており、従来の吉村武雄氏の取引先や近隣への態度と符合しています。

問 負債整理の後に、こんどの武相砂利株式会社を設立したわけですか、

答 整理完了してからで、昭和二七年頃に設立されたと思います。武相砂利は、厚木町の町当局及び町議会方面で、吉村氏の誠実な負債整理や、町の発展のための努力振り、及び事業経営者として人柄の立派なことなどから、市所有の砂利採堀鉱区の恩情ある払下げを行うことになつたために設立されたものと聞いて居ります。

問 武相砂利のその後の業績についてご存じでしたら述べて下さい、

答 厚木町の功労者として、厚木町所有の砂利採堀鉱区を取得できて事業は発足したものの、負債整理につゞく資金難で、大分苦しまれたのでないかと想像しますが、吉村氏の勤勉と努力で切抜けてきたものと思います。幸い、昭和三五年頃から好景気となり、砂利の需要も急増し、事業は大発展するに至つたように思われます。ところが、不幸にして吉村さんは氏の仕事場である相模川全域の砂利採取禁止という目に合われたのです。

問 ところが昭和三七年には早くも、神奈川県当局から、相模川全域にわたり、砂利の採取を全面的に禁止されることになつたそうですね、

答 その通りです。吉村氏は、砂利採取業をつゞけて行くために、田畑などの地下に埋没している砂利の採取権を取得しようとして、その目的は正しかつたのですが、手段方法に手違いがあり、今度の事件となつたと思われます。立派な人物であり、厚木市としてもぜひ活動していただかなければならぬ実業家であります。かけがえのない人ですから、何とか寛大な処置を希望しているのは私だけではないと思います。

以上が長年月にわたり厚木市議会議長をつとめ、現在も、証人当時も市議会議長の要職にある堀口一已氏の責任ある証言要旨であります。市民知人を代表して明確に断定的に証言した有様がほうふつとして目前にうかぶのであるが、何とぞ虚心たんかいにこの証言に耳をかたむけていただきたい。客観的な真実でなければ、かく明確でないものであり、吉村被告の武相砂利会社の受刑者として悪性に欠けるところがあると、市民、市議会議長が確信していることを示している。刑の量定につき、この客観的真実が看過されたことを弁護人としていかんとせざるをえないのである。

次に、原審証人西山三吉氏は、厚木土地西部開発振興委員長として、被告の事業に関連をもたざるをえない立場に居るため被告の仕事につき詳細を知る者である。氏は昭和二七年三月武相砂利株式会社を設立し砂利事業を始めた当時、吉村氏は毎朝五時半か六時には現場にいき、自から人夫となり陣頭に立つて指図をし夜おそくまで働きつづけた。倒れるまで働くという働きぶりで、困窮しても他人に迷惑をかけないで努力するという吉村氏の行動と性格の詳細を事業面から立証し、原審の法廷で証言したのである。これを原審証人調書の要旨を左記することによつて示すこと、援用することを許されたい。

原審証人 西山三吉氏(厚木南部地域開発推進組合長)調書の要旨

問 証人はいつから厚木西部土地開発振興委員長をしています、

答 五年位前に設立されてから引つゞき委員長をやつていますが、原木南部地域開発推進組合というのが正しいのであり、その組合長をしています。

問 それはどういうことをする役職ですか、

答 厚木市の西部は住宅が急速に建てられるので、下水その他の設備が間に合わないので、設備を促進して、来来の禍害を妨ぎ、将来の発展を期する町内会長ら多数が下から盛り上げて作つている団体です。

問 吉村さんを知つていますか、

答 私は建材業で、砂利も建材の一種であるので、一部同業のような関係で四十年来知合いです。

問 武相砂利株式会社が設立されてから、吉村氏はどんな態度で事業をやつていましたか、

答 私は建材業者として砂利採取についても承知している者ですが、昭和二七年武相砂利株式会社が設立され、吉村さんが砂利事業を始められた当時、吉村さんは毎朝五時半か六時には現場に行き自から人夫の先頭に立つて指図をし、夜もおそくまで働きつゞけて居られるのを、しばしば目げきしております。

武相砂利は当時資金難でもあり、非常に難局に臨んでいただろうと思われるのですが、吉村氏は倒れるまで働くという働きぶりで、行動していました。また、吉村氏の性格は困窮しても他人に迷惑をかけないで努力する型の人で、その点は厚木では一般に知られており、吉村氏を知る者を感服させているものと自分はみております。

以上が四〇年間にわたり吉村被告をみつゞけていた信用ある紳士の証言である。そこに本人の性格をみていただき、この性格の吉村が運営した武相砂利株式会社の性格をくみとつていただいて量刑の不当をみとめていただきたい。

旭町は広い地域にわたつている。その厚木市旭町の町内会と町内会長の協力で組識され創立された組合である。この証人西山氏が正義の士であり、町民につくす人であつたため、町民の推選で組合長となつた。その主な仕事は

(1) 旭第二小学校の新設に協力し早期に実現した。

(2) 次に旭公民館の建設に成功した。

(3) 道路、下水の整備に積極的にとり組みこの困難な仕事を非常に促進させた。

吉村はこの(1)(2)(3)に私材の許す限り、無償提供などを敢行して協力した。武相砂利本社が旭町にあるためである。証人の西山氏は建設材料商で、砂利をとりに来る用などがあつて、武相の設立当初から事業内容を知つている。会社所在地の有力者であり、かつ古い取引先であるから、その証言は十分信用できるのである。

第二 適用法条の構成要件としての不明確は刑の量定を軽くすべき事情である。

本件に適用せられた法人税法一五九条は、「偽りその他不正の行為により、・・・・法人税の額につき法人税を免れ・・・・た場合には、法人の代表者でその違反行為をした者は、三年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」と規定している。この『偽りその他不正の行為により』は、構成要件としての明確性を欠いている。「不正の行為により」とか「不届につき」とかの類の不明確なあるいは道徳的な表現をゆるさないことが、近代の罪刑法定主義の出発点であつた。従つてこの種の表現は、近代の罪刑法定主義のもとにおいては、不法であり、違法なものであつて、無効に近いものとして取り扱われねばならぬ。罪刑法定主義にもとづく構成要件理論は、この種のものは構成要件としての意味をもたないとして刑罰法規としての効力を否定する。ことに、右の法条は、改正前の法人税法四八条一項「詐偽その他不正の行為により・・・・」を改めたもので、『詐偽・・・』を『偽り・・・』とさらに改悪したものである。右の旧法人税法も、もとより例示の一つを示したもので、その例示が改悪されたにとゞまり、結局は「不正の・・・」が構成要件とされる。外形上は構成要件としての犯罪の成立を規定しているようにみえるけれども、その実質は莫然「不正」というのみ、道徳上の宗教上の規準を示すのみで法規ことに刑罰法規としては、ほどんど効力のないものである。刑罰法規は罪刑法定主義と構成要件理論に支配されるので、その法としての効力のみとみとめられないことは、刑法上何人も承認するものに属する。

マツクス・エルンスト・マイヤーは、その刑法総論において、鋭くこの点を迫究し、タートベシタントメースツヒカイの概念を明確に浮上らせているが、それによれば、この法規の無効に近いことがたやすく察せられる。刑罰法規としてはである。右のタートベシタントメースツヒカイトの理論は彼に従えば、(一)事実上または具体的構成要件のうちに、(二)法律上または抽象的構成要件(各則所定の)のすべてメルクマールが見出しうることであり、換言すれば、右の(一)と(二)の「相互の完全な一致」を意味する。本件では、この法律上または抽象的構成要件が、あまりにも莫然としているので、なんでもこれに該当し、道徳規範の違反も、宗教規範の違反も、不法行為法上の不法行為も、すべて刑罰を科せられることになつてしまう。かくて科刑制限という人類が進歩のためにたどるべきみちがふさがれ、罪刑法定が失われ、構成要件による限定がなくなるのであるから、本件について科刑を最少限に止めるのが、やむをえない処置であり、原審のような重刑は、害悪を倍加するものでゆるされない。軽い刑に変更すべきである。武相砂利について罰金額を極度に減少すべきであり、吉村被告には執行猶予期間がながきにすぎて、不つり合いのものとなつているのである。

わたくしは、左記の少数意見が正当であると主張しているわけである。

不明確な表現の処罰規定の違憲性

一九五五年以来米国に居住している一カナダ人(三二)が一九六三年帰化申請書を提出したところ、かつてカナダ在住当時同性相姦で逮捕されたことがあるとの理由で帰化を拒否され、本国送還を命ぜられた。そのカナダ人は、この決定に不服で、第二連邦控訴裁判所に原決定の取消請求訴訟を提起し、一九五二年の移民法には“精神錯乱的性格を有する者は帰化を許さず送還する”旨の規定があるが、単に同性相姦の嫌疑で逮捕されたということはこれに該当しないと主張した。

控訴裁判所は、二対一の判決でカナダ人の請求を棄却し、法にいう“精神錯乱的性格”というえん曲な表現の中には、立法技術的沿革に徴し、同性相姦傾向者を含むと解されると判示した。もつとも、少数意見裁判官は、叙上の法文の規定は余りにも不明確で憲法違反であり、移民官が医学的検査もしないでカナダ人を該当者としたのは不当であると反対意見を表明した。

この判決の多数意見は同種問題についての第九連邦控訴裁判所の判決と抵触するので、いずれ連邦最高裁の審判の対象になるものと予想されている。

(タイムス七月二二日号三〇頁ラジオペレス提供)

第三 両罰規定により武相砂利株式会社に刑を科しうるか否かは甚だ疑わしい

刑法典には自然人以外の科刑を予想したものが全くない。自然人のみを対象としてすべての法規をもうけている。自然人以外の科刑を禁止している。刑法三八条一項は自然人のみが対象であることを示しており、刑法八条によりこれは本件にも適用される。刑罰の属人性はイタリヤ憲法の明定するところであり、自明の理として明定しないわが憲法においても、同一に解される。法人科刑はゆるされていない。イタリア憲法と同一に解すのが当然である。法文を要しない。

所見を開陳するため、まず抽著刑法総論(昭和四一年四月刊)七二頁以下を左に引用し、説明の順序、便宜としたい。

刑法は他人の行為について罰せられないことを保障する。また、刑法が犯罪の主体として予定しているのは自然人だけであつて、法人や団体はこれに入らない。特別法にはこれに反する規定がある。そのためこれを論ずる。人が犯罪の主体である。法律上の人には自然人と法人の両者が含まれる。昔、文化程度の低い時代には、侵害が人為から来たか、自然的事実から来たかを区別しなかつたこともあつて、動物や無生物もなお犯罰の主体と考えてこれに罰を科していたという幼稚な時代もあつた。しかし、現代の法律は自然人と法人の中、犯罪の主体となり得るものは自然人のみで、法人に刑罰を科するなどということは、刑法典のどこにもないし、また、正しい刑法理論は法人に刑罰を科しえないという結論をもつている。犯罪成立の三要素には法人の場合には、絶対に充たしえない責任という心理的要素を含んでおり、当然に、法人に犯罪能力のないことを刑法理論が明らかに示している。

刑法は原則として法人に刑事責任を認めない。責任能力ある自然人は、犯罪主体たると同時に刑罰主体となるが、法人には犯罪能力なく、従つて犯罪主体となることはない。また、法人は原則として刑罰主体となるものではないのであるが、特別規定に基づき例外として、刑罰主体となるかのごときことを規定しているものがあるのは、多分に必要でない刑罰を規定したものとして、それが法律としての効力をもたないもたないものではないかが疑われるべき理由をもつているのである。

かくの如く例外として法人に主体たることを認める特別規定は、いかんながら増加している。其の多数且つ多岐に亘る特別規定は、一般的に犯罪主体と刑罪主体の異なるというが如き許すべからざる不合理が一体許されてしまうのか、否かにつき、決定をせまるかの如くであり、社会の犯罪観念を混乱におとし入れ、刑罰万能思想に道を開き、危険な道程に足をふみ入れているいくつかの徴こうのうちの一つであると考える。

最近の立法に於て現われる事業主処罰規定の多くは両罰規定の形式を採つて、立法形式は「法人の代表者又は人若くは人の代理人、使用人、其他の従業者が其の法人又は人の業務に関し・・・違反行為を為したときは、行為者を罰するの外其の法人又は人に対しては各本条の罰金刑若は科料刑を科する」というのが一ばん多いのであり、行為者(犯罪者)及び事業主(法人又は人)の両罰を示している。行為者の責任を事業主に転嫁する規定であると共に行為者をも処罰するという意味において両罰規定と呼ばれており、法規がある以上は致し方がないという態度で解釈する人が多い。それらの人々の解釈を紹介すると、行為者が基礎又は処罰せられたかに関係なく、なお行為者の死亡により影響を受けないで法人は処罰されるのだといい、事業主は無過失で刑事責任を負い、証拠もいらぬと解されている。このような法人の処罰ないし両罰規定が果して適法なものであるか、否かについては、多くの疑いがある。刑法理論によつて決定せられねばならぬところであるが、正しい刑法理論は処罰の正当性を否定する。その処罰がいかに久しくいかに多く行なわれたか、行われているかに捉らわれてはならない。民法その他の私法の場合のように、慣習法は処罰の理由とならぬ。法律の全分野、法の精神からくるより多くの反省は、人をして社会の必要な範囲を越えて法人処罰がはなはだしく拡張されてしまつたことの不当を自認せしめるであろう。絶対にかつ明瞭に必要な刑罰は、自然人については考えうるが、法人についてはこれを考える余地がない。自然人に対する処罰のみで常に必要にしてかつ十分なことがやがては了解されるのである。ことに刑法三八条一項の要求する責任性の要素は、法人や事業主たる人において常にこれが欠けており、この一点からみても、法人や人の犯罪能力は明らかに否定せられねばならぬし、従つて刑罰能力も当然にないのである。犯罪能力はないが刑罰能力があるなどということ自体、とんでもない話でなければ、悪魔のごとき非道である。法人や事業主たる個人の処罰規定は刑法理論の容認しえない性質のものであり、法人犯罪、無過失事業主犯罪ということは存在しえない。空想に基づく処罰である。無過失なれど刑事責任ありなどというに至つては、不法行為とさえもならぬものを犯罪とすることにもなり、過失さえ罰してはならぬとする刑法において、どうしてそんなことがいえるか、何人もその不合理をみとめると思う。

(一) 問題と私見

(1) 代罰・両罰・法人の処罰規定規定について ここで問題とする代罰規定、法人の処罰規定、両罰規定などは、多種・多様にわたる形式で立法されているものを総称したのであるが、その主要なもの一つ二つをはじめに示しておくことが説明を進めるために必要であると思う。

代罰規定としては、労働組合法三一条

法人又は人の代理人、同居者、雇人その他の従業者がその法人又は人の業務に関し前段前条の違反行為をしたときはその法人又は人は、自己の指揮に出たのでないことの故をもつてその処罰を免れることができない。

前条前段の規定は、その者が法人であるときは、理事、取締役その他の法人の業務を執行する役員に、未成年者又は禁治産者であるときは、その法定代理人に適用する。但し、営業に関して、成年者と同一の能力を有する未成年者については、この限りでない。の如きがあり、両罰規定・法人の処罰としては、所得税法七二条

法人の代表者(第一条第七項に規定する法人でない社団又は財団の管理人を含む。)又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務又は財産に関して第六九条乃至第七十条の違反行為をなしたときはその行為者を罰する外、その法人又は人に対し、各本条の罰金刑を科する。

第一条第七項に規定する法人でない社団又は財団について前項の規定の適用がある場合においては、代表者又は管理人がその訴訟行為につき当該社団又は財団を代表するほか、法人を被告人又は被疑者とする場合の刑事訴訟に関する法律の規定を準用する。の如きがある。

その他、各種法規に、各種各様の形式で、数多くいままで存在していたし、現在も存在しているのであつて(労調法三九条、労基法一二一条、旧国家総動員法四八条など)その型を類別整理することも、一つの仕事ではあるが、ここで論じようとする事項ではない。故に、単に比較的多い形式を示すに止めたが、この種の規定は経済、労働警察、租税など、特別刑法の全分野にわたつて存在している。ここに示した立法の形式に明らかなように、この種の規定はひとまとめに、特別刑法における犯罪主体と刑罪主体とが異なる場合の諸規定という言葉で概括することができる形式をもつているのであるが、こういう諸規定についての刑法理論を迫究してみようとするわけである(一)。

しかし、そもそも犯罪主体と刑罰主体が異なるというようなことは、それ自体はなはだしい矛盾である。それはある人が他人の犯罪によつて処罰されるということであり、罪責がないけれども刑罪を科するともいうことともなるのであつて、いかにこのような法規があつても、その法規自体無効のものであるという立場が、早くもその形式から成立すべきであり、また、処罰の必要がないのに行われた立法でないがその実質について疑われるべきである。

もつとも、処罰の必要を疑う鼻見については一言しておくべきことがある。例えば冒頭に掲記した労働組合法三一条などの両罰規定について、次のようにいわれていることを明らかにしておく必要がある。「一般市民刑法にいわゆる個人責任の原則に対する修正的例外を規定しているもので」「労働刑法における責任性における特徴は、あらためていうまでもなく、一般的・抽象的に自由であり・平等であると思料された個別的意思の主体を前提として構想された自由主義刑法が、ブルジヨア市民法原理の対自的修正として現われた団対主義の法原理にたつ(危機的立法)たる労働法によつて、――すなわち、集団的従属労働関係=階級関係にまで構成された従属的労働関係のもとにある労働者(階級)のための法益を確保し、保障することを機能とする、労働刑法の質的な特殊性を表現しているものにほかならないのである。」(熊倉武・労働刑法・労働法講座一巻一四五、一四六頁)と、すなわち、両罰規定などは労働者階級の利益を確保し保障するためには、有効なもの、必要なもので、労働刑法の質的な特殊性のゆえに特別扱いされねばならぬ、無効などとはとんでもないというわけである。しかしながら、この種の法規はなにも労働法や労働階級のために関してのみ立法されているのではなく、電気事業法・瓦斯事業法・漁業法・鉱業法などにもあり、租税にも、経済にも、警察にもあり、国家総動員のためにもあつたことで、決して労働階級のためのみの特殊なものではない。

そして租税刑法においても、経済刑法においても、租税についてだけは必要だ、経済統制についてだけは必要だというふうにいわれたもので、ここでは労働階級の法益だけは特別扱いというふうに聞えるけれども、代罰や両罰規定を正当化しようとする人はいつでもそのような主張の仕方をしたということは明らかに記録されているものである。その主張の仕方の点で共通していたのである。要するに、木をみて森をみない主張で、このような局部に捉われて不法な刑罰を作り出さないためにも、刑法理論に照してみる必要があり、そうすることによつて実は刑罰に価しない事項ではなかつたかという反省を生むよすがともなるし、刑罰の必要が実際にはなかつたこともわかり、刑法理論に従うことの正しさが再認識されることになると思うのである。

(2) 私の見解 犯罪とは何かという問題を起して、莫然と観察すれば、生起する社会現象の一つにすぎないことになろうが、伝統に根ざす社会感情にそむく行為のうちで、絶対にかつ明瞭に許すべからざる非難に価する、刑罰という強い非難に価するもののみが犯罪である、といつてよいと思う。

刑罰を科することが、絶対にかつ明瞭に必要とせられているかどうかを判別する標識として、第一に責任性の要素が考えられる。それは、責任性がなければ、それだけでもう犯罪ではないという意味で要素といわれるもので、その犯人の心理に立入つて刑罰という非難を加えねばならぬ心理状態で行なわれたのでなければ、犯罪として取扱うことは許されないという意味である。刑法三八条一項に明文上の根拠があるのであつて、民法七〇九条と異なり、原則として過失の程度では損害賠償責任はあるが、刑事責任はない、ということを示しており、また無過失の場合は、いかなる場合でも刑罰に処せられないということを含む規定である。前記の代罰・両罰などは、過失犯処罰規定でないことは形式上疑いなく、無過失の処罰も厳禁されているので、この規定は規定じたい無効である。

犯罪三要素説は、犯罪の成立を非常に少ないものとするのであり、刑罰を科することは特殊例外の場合だという結論となる。私は、このような罪刑法定の思想のうちに新しい刑法の進路をみようとする。すなわち、刑罰の縮小、消滅が理想であり、刑法を消滅させることが刑法の目的である。罪刑法定の終局の姿をそこにみようとする。そのためには、民法その他の私法において(民事法廷においてといつても同じである)不法行為に対する損害賠償の賦課が十分に行なわれ、行政法において行政罰が適当に行なわれなくてはならないのであつて、不法行為法において懲罰的損害賠償 exemplary damages, punitive damages が 漸次わが国でも実現されることが望ましいし、行政法が行政罰を十分に活用することが望ましいのである。ところが、この望ましい進歩の方向をたどらないで、行政法か、刑罰の分野に逆に侵入して、刑罰を縮小しようとする罪刑法定の理想をまひさせ、刑罰拡張の不当を敢えて推進しつつある現状である。この憂うべき行政刑法の傾向の一つとして、この代罰責任、法人の犯罪能力などの問題も派生したものである。

刑法と不法行為法との関係、罪刑法定の支柱としての損害賠償、ことに徴罰的損害賠償は、従来刑法において論ぜられていないため、突飛の感をあたえてはとの心配から一言するのであるが、この損害賠償と刑事司法ないし刑法とは、決して無関係ではないし、無関係であつてはならない。田中和夫氏の次の一文から、このことを察知したいと願うものである。それは「多忙を極めている検事には気がつかない犯罪が沢山あり、また気がついても重大な犯罪でない限り一々これを起訴するわけではないので、被害者たる私人の訴えた不法行為の訴において懲罰的損害賠償を与えることによつて、非行をより完全に処罰し、犯罪ないし非行の予防をより全たからしめることができる。そして、民事訴訟で被害の補償以上のものを与えて非行の予防に役立たせるというヤリ方は、連邦議会も特許権侵害(35USCA67)や反トラスト法違反(15USCA15)等の場合に採用している―――これら二つの場合には、被害者からの訴において、その受けた損害の三倍の損害賠償を与える。―――のであつて、不当な行為の抑圧、予防のために有用な手段である(二)。」

このことをここで詳しく説くべき場所ではないが、私はやはり、行政罪との関係、不法行為法・損害賠償との関係を通じてこの問題を明らかにしてゆく必要があるものと考えている。

これを法人犯罪・法人処罰について考えてみると、そもそも不法行為についても犯罪についても、代表ということはないのである。代表とか代理とかは、普通の法律行為にのみ存在することであつて、機関の不法行為が法人の不法行為となるということはなく、機関の犯行か法人の犯行となるということもないことである。不法行為については代表なく、犯罪行為についても代表ということはない。会社の業務執行に関し故意をもつて犯罪を実行したものは、自ら犯罪行為者として刑罰責任に服すべきであつて、それはあたかも、会社の業務執行に関し過失をもつて他人の権利を侵害し損害を生ぜしめたものが、自から不法行為者として、これが損害賠償の責に任ずべきであるのと同様である。代理は意思表示についてのみ存立できる観念であるから、代理の法則は意思表示を要素とする法律行為に関してのみ適用できるのであつて、意思表示を要素としない不行為にも、犯罪行為にも、これを適用することはできないのである。したがつて代理人、代表者、従業員などが行つた不法行為に対する賠償、犯罪に対する刑罰は、いかなる事情があつても代理の法則により、本人たる法人にそれが帰せしめられることはないのである。民法四四条一項は、理事その他の代理人が、その職務を行うにつき他人に加えた不法行為上の損害に対し、法人自らその責に任ずべきことを規定しているのであるが、民法四 条の「職務を行うに付き」は、民法七一五条一項の「其事業の執行に付き」と同じ意味に解すべきであつて、民法四四条は法人の不法行為能力を認めたものではなく、いわんや法人の犯罪能力とはなんら しない規定である。

(一) 過去に存した無数の諸規定の分類整理としては、池田克、「特別刑法における犯罪体と刑罰主体の異なる場合の帰納的考案」(司法資料一八九号昭和九年)があり、明治初年以来のこの種法規を示し外国の場合と比較しつつ、徳川時代以前からのわが国に特殊な社会心理的な地盤が、この種法規のはんらんと関係があるのではないかを示唆するものとしては、団藤重光、「いわゆる代罰両罰規定に関する一考察」(法律時報一六巻一二号)がある。

(二) 田中和夫氏の論文「英米における懲罰的損害賠償」損害賠償責任の研究(中)八八五頁以下は行為者を懲罰するために、通常の損害賠償に附加して科せられているこの賠償についての貫重な研究であつて、わが国の慰籍料との関係、犯罪ないし非行との関係にも論及している。これによる被害者の救済、被画者の正当な満足は人間愛の精神に合致するものがあり、懲罰的に加害者に作用することと相まつて、法律の企図する正義の理念に適合するものであると思われる。

(二)代罰規定は当然無効である。

(1) 法人の犯罪能力 犯罪行為というのは、生理的人間の行態についていうのであつて、性質上自然人だけが為し得る行為である。これを前提として責任性、違法性、構成要件該当性という分析も行われている。イタリヤ憲法二七条の「刑事責任は人的である」という規定は、当然のことを規定したものであり、その明文の存否にかかわらず凡ての国の憲法において、憲法上の原則として承認されているものである。個人も他人の犯罪行為によつて処罰されることはないのであり、罪責なければ刑罰はないのであるから、法人には犯罪能力がないと結論されるほかはない。故に多くの判例は、法人には犯罪能力がないという見解をいくたびも繰返してやまないのである。かくして、法人の犯罪能力が否定されるならば法人の刑事責任は他人の犯罪による責任だということにならざるを得ない次第であり、そのような処罰法規は無数とせられねばならないわけである。

法人の犯罪能力を否定した判例の中に、「法人ハ無形人ニシテ唯タ其ノ目的ノ範囲内ニ於テ人格ヲ 有スルニ過キサルヲ以テ犯罪ノ主体タル能力ヲ有セサルヲ原則トシ、法律ノ明文ヲ以テ特ニ犯罪ノ主体トシタル場合ニ非サレハ刑事上ノ責任ヲ負ハサルノミナラス・・・」(大判明治三六・七・三刑録九巻一二〇二頁)というのがあるがこれをもつて法律上の文文をもつて特に犯罪の主体と規定しさえすれば、その法規によつてただちに法人の犯罪能力が是認されるという意味に解すべきではない。このような解釈は道理に反するのみではなく、その後の判例は法人の処罰規定を目して法人の犯罪能力を認めたものではない。としているのである。かくして犯罪主体と刑罰主体とが異なる場合という不合理に坐するのであるが、判例のおち入つたこの不合理は、この法人処罰規定が法の根本原理および憲法に違反し当然無効であることを明らかにしないことから発する。その無効規定であることを明らかにしない限り、まつたく是正の途を閉されている重大な不合理であることはすでに述べた。

自然人が法人の機関として行う行為は、民法その他私法の領域においても、行政法の領域においても法人自体に効力を発生せしめるのであり、機関である自然人の行為は、当然に法人の行為とみらるべきで、機関たる自然人の行為と法人自体とを分離すべきでない。法人の行為と同様でないということは、法人の行為能力を否定する理由とはならない(木村亀二・刑法総論一五二頁)。刑法の領域においても法人自体に効力を発生せしむべきである、と論ずるものがある。しかしながら、私法においても、行政法においても、法律的な構成として行為の効果が法人自体に帰属するとしているのみであつて、行為自体と行為の帰属とは異なるのである。自然人の行為が法人に帰属せしめられるのは、法律行為におけると不法行為におけると、犯罪行為におけることによつて、当然異なるべきである。それぞれ法律の構成を異にしているからである。公法私法における法律行為の効果が法人に帰せられているから、刑法においてもそうでなければならぬということにならないのは、刑罰責任の根拠が非難可能性であり、それは機関たる自然人については考えうるが、法人については考える余地がない。また、不法行為法において、機関たる自然人の不法行為が法人に帰属せしめられる場合があるからといつて、ただちに、刑法においても、機関たる自然人の犯罪が法人に帰属せしめられることにはならない。両者は原理と法則を異にしつつ、深く関連しているのであつて、いかなる意味においても同質のものではないから、刑法において是認されない限り、不法行為法における是認は、刑法を左右しないのである。いわんや、民法四四条などの存在にもかかわらず、法人の不法行為能力を否定するをもつて正当とすべきであるにおいておや、ということになる。(板倉宏・租税刑法の基本問題一五一頁以下参照)

次に、法人と罰金刑との関係について言及しておきたい。大判昭和八・六・二〇新聞三五八八号に、「我現行法ノ下ニ在テハ刑事責任ノ観念及自由刑ヲ主タル刑罰トスル点等ニ稽ヘ法人ノ犯罪能力ヲ否定シ法人ノ代表者カ法人ノ為罪ヲ犯シタル場合ハ法人ヲ処罰スベキモノニ非スシテ該代表者ヲ処罰スヘキモノト解セサルヘカラス只法人ノ代表者其ノ他ノ従業員等カ法人ノ業務ニ関スル犯罪ニ付法人ニ責任ヲ負ハシムヘキ処罰規定存スルモ是レ行政的取締ヲ目的トスル刑罰規定ニシテ例外ノミ原判決ノ認定シタル事実ハ被告等ハ所論会社ノ取締役ニシテ同会社ノ損害填補ノ目的ヲ以テ不足証明書ヲ騙取セントシタリト謂フニ在ルヲ以テ従令其ノ目的ハ会社ノ利益ヲ計ル為ナリトスルモ詐欺罪ハ個人タル被告等ニ対シテ成立スルコト勿論ナリ」というものがある。この判決において、「是レ行政的取締ヲ目的トスル刑罰規定ニシテ例外ノミ」として、罰金刑の法人処罰規定を適法とみているように解されるのであるが、行政的取締の目的のためには、行政罰たる過料によるべきであつて、判旨のごとく、行政的取締を目的とする刑罰規定が当然に許されるべきいわれはない。法人の取締、行政的取締は、常に刑罰以外の制裁によらねばならない。刑罰責任は自己の自然人としての責任のみであり、他人の行為による責任ではない。個人的なものであり、一身に専属するものである。西ドイツでは一九五七年競争制限に関する法律四一条、一九五四年経済処罰法などが、法人その他の団体に対する取締のためには罰金刑という刑罰を科さないで、行政罰により、過料を科することを定めている。また法人の取締のためには刑罰を科さない、刑罰としての罰金とは異なる制裁を科するという原理が貫かれている。西ドイツ一九五六年刑法改正草案二条は、責任なければ刑罰なしの原則を明示しており、一九三七年第四次国際刑法会議も、イタリヤ憲法におけると同じく、刑事責任の厳格な属人性を決議しているのであつて法人の取締は刑罰以外の制裁によらなければならないのである。また、この判決は、冒頭に「我現行法ノ下ニ在テハ刑事責任ノ観念及自由刑ヲ主タル刑罰トスル点・・・」といつているのは賛成致しかねるものである。近代刑法以前においては生命刑が主たる刑罰であつたという意味において、我が現行法は自由刑を主たる刑罰とするということは言いうるけれども、現に死刑も存在しているし、禁錮刑は殆んどなくこれを主たる刑罰とはいえないのであり、抱留刑は軽微である点を考えれば、懲役刑が主たる刑罰という意味で言つているのかも知れないが、いずれにしても主たる刑罰とそうでない刑罰とを区別する根拠がないのみならず意味もないのであつて、ただ言い得ることは刑法九条の刑罰は、すべて犯罪能力のない法人には科し得ない、それは性質上科し得ないということでなければならぬ。自由刑云々といつてあたかも罰金刑その他の財産刑ならば、これを科しうるかの如き表現は許すことができない。この判決に対し、金沢文雄氏(金沢文雄・法人の刑事責任・両罰規定一八頁以下)は、「この判決は刑事責任の観念及び自由刑を主とする刑罰体系から法人の犯罪能力を否定するが、これは我国の通説的見解となつている。しかし、刑罰体系の問題は今日理論的にあまり重要でないと思われる。何故なら、法人に対して自由刑は科し得ないが罰金刑は科しうるのであり、そして特別法には罰金刑の規定が多く、特に法人に対して直接罰金刑を適用する規定が激増しているからである。問題はむしろ刑罰の本質の理解に関することであり、これは結局現行刑法における刑事責任の本質の問題に帰着する。したがつて、法人の犯罪能力は判決がいうように『刑事責任ノ観念』から考察されなければならない。そこで、『刑事責任ノ観念』とは何かが問題となるが、判例はこれについて特に理論を展開しているわけではない。いわゆる道義的責任論によれば、責任非難は倫理的人格に対してのみなされるから、かような人格を有しない法人は責任の主体となりえないとされるが、判例も恐らくこのような立場に立つものと考えられる。他方、社会的責任論においても従来は自然人たる行為者の性格的危険性のみが考慮されており、したがつて『刑法の主観主義は、要するに自然人たる犯人についての理論たるに止まるもの』であつた。しかし、社会的責任論の見地においては法人の刑事責任を肯定することがむしろ論理的ではないかと思う。何故なら、社会的統一体としての法人の社会的危険性は個人のそれに劣らず社会防衛の措置を必要とさせるからである」と説かれた。

しかし法人に対し自由刑は科し得ないが罰金刑は科しうる―――という考え方そのものが否定されねばならぬのであつて、それは法人には自由刑であれ罰金刑であれ、一切の刑罰は科しえないのであるから―――と訂正されねばならぬと思う。また、法人に対し直接罰金刑を科する規定が激増しているのは、憂えるべき現象であり、それが法人に対する刑罰を是認する根拠とはなりえない性質のものであり、刑罰をもつてする必要がないのではないのかの検討と、行政罰をもつてすることの工夫とが要請されている性格のものである。判例はこれについて特に理論を展開していないといわれるが、判例はこの種の成文法を常にうのみにするという悲しむべき態度をもつて一貫しているのであつて、その無効を宣言することによつてのみ、正当な立場を回復しうるのに、これをなさないものである。そうして、学説もまたこの判例の誤れる態度を批判しないために、極度に理論の混乱を生じ、不必要な煩わしい混迷に陥つているのが、この問題の特色なのである。

つぎに、行政刑法においては、行政犯の特殊性の故に法人の犯罪能力もみとめることができるとする行政法学者美濃部達吉氏の独特の見解が、古くから主張されていた。しかし、この学説は、刑法九条と八条を無視して、刑罰の分野に不法侵入した行政法なのであつて、行政法ないし行政処罰法において考究せらるべきは、過料その他の行政罰についてであり、刑法九条の刑罰については、常に刑法総則による考慮を失つてはならないのである。それは、罪刑法定の内に含まれている刑罰を、それが死刑や懲役のように重いものではないから、大いに拡張しても差支えないという、誤つた刑罰拡張の線に沿うて刑法を破壊するものであり、著しく刑法の目的ないし理想を阻害しているもので、看過できない弊害をすでに生じているものである(法人についての以上の所論は法人格のない団体にもそのままあてはまる)

(2) 代罰責任は規定されることにより有効となるか (イ) 行為者以外の法人なり個人なりを処罰する規定がある以上、何故処罰できるのかという理由の探究が行われてもやむを得ない。判例学説は従来無過失責任説をとつてきた。この法人・個人(事業主と総称する)は、事業主自身の罪責により処罰されるのではなくその処罰には事業主自身の行為ないし意思はなんら関係しない、とするのである。他人の犯罪のために負担する責任であるから刑罰ではないという非刑事責任説も存在するが、規定の無効を断じないで、刑法九条の刑罰の課せられることを是認しながらその性質刑事責任であると説いてみたところで、その説くところは無意味に近い。かくて無過失刑事責任説に傾くわけである。代罰責任規定の規定形式が、正に純然たる他の犯罪による処罰を意味する無過失刑事責任の法意を表わしているのであるが、少しく判例についてみると、事業主の故意過失を問わぬ法意であるとするもの(大判昭和一七・九・一六刑集二一巻四一七頁)、従業員の雇入または選任についての不注意やもしくはその監督不行届について事業主を罰するものではないとするもの(大判昭和一七・七・二四刑集二一巻三一九頁)、従業員の違反行為の遂行につき、事業主の行為もなんら介入せず、単に行為者の違反につき処罰をうくるとするもの(大判昭和一六・一二・一八刑集二〇巻七〇九頁などがあつて、正に完全に無過失刑事責任を追及する趣旨であることを表明している。まさに、そのとおりの立法理由をもつて制定せられた法規なのである。驚くべきことである。

しかしながら、これらの事業主処罰規定は規定自体無効である。もし、無効でないものとすれば、事業主は他人の行為により無過失で刑事責任を負うことになるのであり、犯罪主体と刑罰主体の同一を要求する刑法の原則を破ることになるが、そのようなことは取締の必要がいかに存在したと仮定しても、とうていみとめえないのである。責任なき処罰は不正であり、法規を無効としない限り、かかる不正の貫徹を避けえないのである。行政上のいかなる必要も、他人の行為による無過失責任を特別に要求することはできないし、個人責任の原則刑罰属人性の原則の放棄を要求することはできないのであるから、かかる法規は絶対に無効である。

(ロ) 学説・判例の一部に過失擬制説がある。監督上の責任を擬制するものであり、過失を擬制によりみとめるもので、監督不行届は法律上当然あるものとする。というのであるが、これでは、過失のない事業主を罰する点において変りはなく、刑罰は真実有責なものにのみ課せらるべきであるから、そうでない者にこれを課する規定として当然に無効である。また、同一犯行につき二重の処罰を行うものである点においても前者と異ならない結果となる。判例の中には、従属責任を説き、(最判昭和二八・一・二七刑集七巻六四頁)、行為者の責任に当然随伴すると説く(東京高判昭和二九・一・二一刑集七巻一五頁)ものがあるが、要するに従来の無過失責任説に帰するものである。

つぎに、不作為犯説ともいうべき「結局、両罰規定は業務主につき不純作為犯と過失犯との両者を規定した復合的構成要件ではないかと考えられる」(金沢・前掲書六九頁)とする新説がある。同一規定を故意犯であると同時に過失であるとみることに無理があり、刑罰法規についての拡張ないし類推の強度なものとしてこの解釈を避けるべき理由がある。

(ハ) 過失推定説と解されている最判昭和三二・一一・二七刑集一一巻三一一三頁は、「事業主として右行為者等の選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定した規定と解すべき」であるとする。これに対し、田中、斎藤、下飯坂各裁判官の補足意見が附せられているのであるが、金沢氏はこれらの補足意見を適切に批評していられる(金沢・前掲書六三・六四頁)そして、結局多数意見による判決の立場をもつて正当とされるのであるが、問題は法規の形式がなんら過失犯処罰規定となつていないのみならず、過失を推定するという趣旨もすこしも現わされていない点である。この点では、田中、斎藤、下飯坂意見が力説する通り、正に無過失刑事責任の形態と解される。ただこの無理な不要な形態を有効であるとする点に限りがあるが、刑罰法規はその形式を無視して便宜に拡張し、任意に類推することは、詳し難いところであるので、この過失推定判例も、金沢氏の所説もこれを採るに由なきものである。単に合理的であるということならば、単純な過失犯であると主張し、過失の立証を検事に要求する飯塚敏夫説(飯塚・従業員の価格違反と事業主の責任・日法九巻二号六四頁)の方がはるかに合理的である。しかしながら、そもそも過失犯の規定であるということが、到底根拠づけられないので、等しく空しい所論となるのである。無過失刑事責任というのは、故意どころか過失もないのに処罰する規定だといつているだけで、過失犯であるとしているのではない。過失犯には刑法三八条一項但書に該ることを確認せしめるだけの形式が必要である。旧来の判例・通説に従い無過失刑事責任規定であると解し、この無過失刑事責任規定は無効であると断ずるほかに、なんら解決の途をもたないのが、この問題の特質である。

過失推定説を判示した前記の最高裁判例は、将来にわたつて、わが国両罰規定の解釈について、論議のまととなる重要判例と思われるので、少し詳しく述べることとする。

事実の概要は、客から入場料を徴収して営業する業者上林の従業員甲乙丙が共謀して、実際に徴収した入場料の三分の一を記載した帳簿を作成し、所轄税務署に対し入場税額につき虚偽の申告をし、業務に関し不正の方法で入場税を逋税したのであるが、この共謀した甲乙丙は処罰されないで、右業者上林が起訴され被告人となり罰金刑に処せられたものである。この事実に対し、第一審東京地裁、第二審東京高裁は、いずれも、廃止前の入場税法一七条の三、「法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使用人其ノ他ノ従業者其ノ法人又ハ人ノ業務ニ開シ第十六条ノ違反行為ヲ為シタトキハ科料刑ヲ科スルノ外行為者ヲ処罰ス但シ行為者ニ付テハ情状ニ因リ其ノ刑ヲ免除スルコトヲ得」を適用し、行為者甲、乙、丙は、被告人上林の使用人であり、被告人の業務に関する犯行であるからとの理由で、被告人上林を右法条両罰規定所定の刑に処した。上告理由は、行為者甲、乙、丙、の違法行為が事業者たる被告人上林の業務に関するものであつたとしても、被告人上林が違法行為に関与していないのだから、同被告人の違法行為とはいえない。にもかかわらず、あえて右入場税法で処罰するのは、自己の意思に基づく行為についてのみ刑事上の責任を負うという憲法三九条に違反するものである、と主張した。

最高裁大法廷は田中、斎藤、下飯坂三氏の補足意見を除き、全員一致の意見により上告を棄却し、次の解釈を示した。その最高裁判例の示す多数意見は無過失処罰を違憲と考えている。

前記入場税法一七条の三は、「事業主たる、人の『代理人、使用人其ノ他ノ従業者』が入場税を逋脱し、または逋脱せんとした行為に対し、事業主としての右行為者らの選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定した規定と解すべく、したがつて事業主において右に関する注意を尽したことの証明がなされない限り、事業主もまた刑責を免れ得ないとする法意と解するを相当とする。それ故、両罰規定は故意過失もなき事業主をして他人の行為に対し刑責を負わしめたものであるとの前提に立脚して、これを憲法三九条違反であるとする所論は、その前提を欠くものであつて理由がない」・・・と、これが多数説の判旨である。

しかし、前記した法条に明らかなとおり、法文は「過失の存在を推定した規定」としての形式を全くもつていない。いやしくも、刑事責任の存否について、過失を推定するというがごときことは、最大の重大事であつて、よほど明確な法規がない限り、刑責の推定をみとめうるものではない。この場合のように、過失推定を全くもたないにもかかわらず、過失推定規定であるとする判旨は、何人をも首肯せしめない。合理性を全く欠いているからである。立法形式を無視することは、刑法三八条一項但書を無視することであり、刑法八条但書を無視することに他ならぬ。ゆるさるべくもない。本条は、正に判決文中にいうとおり、「故意過失もなき事業主をして他人の行為に対し刑責を負わしめたもの(両罰規定)である」から、当然に無効である。判旨は明白な法文をわざと曲げて説く無暴の論である。憲法三九条の刑事事後法禁止規定に反するか否かは、問題外であつて当然無効とすべきことが明白である。判旨につき尊重すべきは、判旨が立論の前提として無過失処罰を違憲と考えている正しい法律感覚ないし見解である。

この判例が、無過失刑事責任説を明白に表明していた従来の大審院以来のくり返えされた判例の無暴を反省して、事業主処罰の根拠を過失責任に求めようと試みた、良心と善意はみとめられる。しかし、判旨によつて強行された刑法における立法形式の重要性忘却と、刑法三八条および八条の無視はゆるされない。かえつて旧来の判例が、両罰規定の法文に忠実であり、注意ないし、立法趣旨を曲げていないのである。そのために本判例において、すでに田中耕太郎、斎藤悠輔、下飯坂潤夫三氏の異見をみることとなるのであり、それらはいずれも、旧来の判例に存する長所をみようとするものであり、苦心されまた画期的でもある本判例の価値に疑をさしはさむものとなつている。田中、斎藤両氏の意見は次のとおりである。

「われわれは、大体において、下飯坂裁判官の補足意見に同調する。元来わが刑法は、その三八条一項本文において刑事責任は原則として故意を要することを宜明し、各則において例外として過失犯を認め罰金を科し業務上過失又は重過失の場合には禁錮刑をも科しうる建前を採つている。しかし、同条一項但書は法律に特別の規定ある場合は、故意を要しないものとし、同法八条但書は、刑法以外の他の刑罰法令においては、刑法総則と異なる特別の規定を設けることを許している。そして、本件廃止前の入場税法一七条の三は、この刑法 三八条一項但書および同法八条但書の規定に基く法律であつて、刑事責任を負うのに故意も必要としない規定である。すなわち、学者のいわゆる従業員の違反行為を構成要件として生ずる業務主自身の刑事責任を規定したものである。その立法理由とするところは、税法のような徴税を目的とする法律においては、業務主の業務に関し税法違反をした場合に、その違反行為をした資力の乏しい従業者だけを罰して見たところで、その取締の目的が達せられないから、その業務の主体であり、業務上の利益を受ける、資力のある業務主からその業務に関し生じた税金に代る罰金を取り立てようとするにある。されば、かかる規定が憲法三九条に違反しないことは、いうまでもない。多数説は、先ず明らかに明文に反する。何よりもいけないのは、その根底において刑法三八条一項但書および同法八条但書の存在を忘却し、他の刑罰法令においても常に故意又は過失を要するものと誤解していることである。」

無過失でも処罰するという説である。

従来の大審院判例も、事業主の行為ないし意思は犯行に介入せず、単に従業員の違反行為につき罪責を負う法意(大判昭和一六・一二・一八刑集二〇巻七〇九頁)であるとし、営業主(事業主)に故意または過失ありたると否とを問わず、之に対し同条所定の罪責を負わしむる法意なること疑を容れない(大判昭和一七・九・一六刑集二一巻四一七頁)とし、また、その法意は、事業主が従業者を雇入または選任するについて不注意であつたか、その監督不行届であつたかを処罰するものではない(大判昭和一七・七・二四・刑集二一巻三一九頁)としている。法意は正しく旧来の右判例にいうとおりであるから、これを支持せんとする田中、斎藤説は、この点では正しいのである。すなわち、「多数説は先ず明らかに明文に反する」のである。しかし、故意も過失もない行為について、非難し、科刑することは何人にも許されない。法規も最高裁もこれを為しえない。にもかかわらず、敢えて為しうるとし、また、なしてしまつた田中、斎藤へ所見はゆるされない。刑罰を科するのに道義的非難が全くないけれども、取締上は有数効なものだとはなしがたく、取締上も全く有効であるとはいえない。実は、それは取締上も全く無効なものであるはずであり適切なものでもないのである。業務実施の結果が事業主に帰属するからといつて、違反防止が全く不可能であつた場合の事業主を罰してみても、取締上有害でこそあれ、有益ではない。この場合といえども刑法三八条の責任主義を貫くことがもつとも有効である。科刑には、常に、いかなる場合においても、故意または過失を要するものである。下飯坂氏の意見は次のとおりである。

「いわゆる両罰規定の立法上の合理的根拠が奈辺にあるかという問題に関しては、従来諸種の見解が存しているが、これを大別すれば、過失責任説と無過失責任説との二つに分けることができる。前者は事業主(法人を含む)の従業員に対する選任監督上の過失の中に責任の根拠を見出そうとするか、あるいは、事業主の間接的な一種の過失犯そのものとする説であり、後者は国家ないしは社会的要請から一種の無過失的な結果責任とするか、あるいは直截簡明に無過失責任そのものであるとする説である。しかし両罰規定といつてもわが成法の下では各種の形態を具えているのであるから、この問題は一概に抽象的に論断することはできない。そこで、わが法制下における両罰規定の形態であるが、これは大体次の三つに大別できるものと考える。

その第一は、原則的に両罰であるが、事業主に従業員の違反行為防止の為め当該業務に関し相当の注意及び監督の為されたことの証明があつたときは事業主を罰しない、すなわち事業主に無過失の証明があつたことを免責事由としつつその反面両罰の根拠を過失に求めようとするところの規定である。消防法四五条、保険業法一四九条、鉱業法一九四条、農地法九四条の如きは、これに属するものであり、これに準ずる港湾法六二条、生活保護法八六条二項等を挙げることができよう。

その第二は、事業主の事実上の行為者に対する監督取締上の過失責任ないしは違法の結果に発生に対する防止義務の懈怠又は違法行為の怠起に対する共犯責任を処罰の根拠としている場合であつて、職業安定法六七条、船員法一三五条はこの部類に属する。

第三は、最も厳格な意味における両罰規定であり、いわば、両罰規定の典型的なものであつて前示第一のように免責事由の場合を除外することもなく、また、第二のように、義務懈怠や悪意や教唆を予定している場合でもなく、従業員が違法行為をしたときは、これに何らの条件を附加することなく、事業主を処罰する場合であり、本事案の廃止前の入場税法一七条の三の如きはまさにそれであつて、この部類に属するものとしては労働者災害補償保険法五四条、農業協同組合法一〇〇条二項、農業災害補償法一四六条二項、自作農創設特別措置法五一条、災害救助法四八条、消費生活協同組合法九九条三項、放送法五七条一項、鉱山保安法五八条、法人税法五一条、火薬類取締法六二条、医療法七五条、麻薬取締法七四条、薬事法五九条、道路交通取締法三一条、温泉法二五条、食品衛生法三三条、失業保険法五五条、健康保険法九一条等々、枚挙にいとまがない。

さて、責任なければ刑罰なしとは、刑罰法における伝統的な根本観念である。また、他人の行為による刑事責任については、その人が他人の行為に対し意識して原因を与えた場合でなければならないとするが英米法における原則(原因供与の原則)である。しかしそうした考え方は現代の高度に発達した文明社会において、もはや、しかく安易に受け入れられない段階にまできているのではないかと私は考えるのである。

民事において、過失なければ責任なしとはローマ法以来の大原則である。従つて自己のかかわりない他人の行為については責任を負わないというのが、右原則の当然の適用であつた。しかし社会情勢の推移発展から、また損害賠償制度の本質に鑑みて、右原則が徐々に崩れゆく方向にあることは、ここに多く弁ずるまでもあるまい。すなわち自己の意思又は命令に出たものでない代理人の行為に対し、本人に責任を負わしめる、いわゆる上級者責任の原則が是認されるようになり、また、更に全く過失のない場合にさえ責任を負わしめる方法が採用されるに至つたのである。(民法七一七条参照)。勿論損害賠償制度と刑罰とはその根本観念を別異するものであるが、近代の複雑な社会構造においては刑事においても、民事におけるような、いわゆる代替責任ないしは無過失責任を認めることなしでは、到底法秩序の安定を期し得ないのであり、それが近代法の当然の要請でもあると考える。尤もそれは、行政取締法規のわく内でのことで金刑に限局されるべきであろう。この点に関し、ある米国の刑法学者は次の如く述べている。『民事において上級責任の原則を是認せしめたように、刑事裁判が商業的分野にまで及び、食糧品、建築、交通等に関する取締法規違反のような、本来犯罪とは云えないものにまで及ぶ今日においては、刑事責任についても民事と同様な代替責任を是認しようとする傾向の生じてきたことは、けだし免れない数である。(中略)本来の犯罪は道徳的非行から始つたものであつて、これに対する刑事裁判の目的は専ら処罰にあるところが、現代では、その本質は民事的であり、個人の道徳的責任とは関係のない社会的立法である取締法規を実効あらしめるために、刑事裁判手続という機械を利用しようとしている。すなわち刑法が本質的でない分野にまで強く侵入されているのである。かかる例は、非常に多く、建築規則、スピード規制、食品取締規則、児童に関する労働規則、酒類取締規則の如きがそれで、いずれもこれに対する違反行為に対しては軽い刑を科することによつて右規則の励行を期している。しかも、これらの規則違反は犯罪のレッテルをはられることにおいては何の変りもない』云々。

私は、両罰規定の根本理念を『事業それ自体』の中に見出したいと考える。思うに現代の国家ないしは社会において経済活動がその大部分の分野を占めていることはここに多弁を要しないが、その経済活動の多くは事業主(法人を含む)があつて、その傘下に、多数従業者を包擁結合し、これを一定の有機的な組織機構の下において、あたかも、一個人の事業であるかのように運営されているのである。そして、それら従業員の個々の行動は事業主の業務に関する限り善は善なりに、また悪は悪なりに、利益も損失も、約言すればその業務実施の結果は挙げて、悉く事業主に帰属せしめられているのである。従つて従業員の当該業務に関した事実上の行為は同時事業主自身の行為と看做して一向に妨げない。近代における事業というものはそうした性格のものと理解してのみ、現代の社会構造を把握できるものと私は考える。してみれば、両罰規定において、従業者の違反行為に対しては従業者個人の刑責を問うと同時に、事業主に対しても事業主としての刑責を問い得る筋合であつてここに両罰規定の合理的根拠を見出し得るものと私は信ずるのである。かように考えてくると、本件改正前の入場税法一七条の三の事業主の責任なるものは当該事業の性格自体から、当然に事業主に帰責せしめられなければならないという上叙のような趣旨の下に明定された刑責であつて、従業員の違法行為の存在だけを構成要件とし、その他の要件の附加されることを予定していない事業主独自の責任であり、いわゆる転嫁責任でもなければ、また多数意見の立論の根拠となつている監督上の過怠責任でもないのである。

ところで、右規定の無過失処罰の点が憲法違反だという本上告論旨についてであるが、その立論の根拠となつている憲法三九条にいう『何人も実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない』という条章は、いわゆる事後法の禁止をうたつただけのものであつて、所論の場合などには何ら関係のない規定である。従つて所論違憲の論議は筋違のものであるが、それはともあれ、いつたい憲法は無過失(狭義)処罰(他人の行為に対して無過失責任を負う場合を含む)を禁じているであろうか、私の見るところではそんな規定は憲法のどこにもないのである。尤も、いわゆる適式手続を規定している憲法三一条が、こうした場合、取上げられるであろうが、これとて、無過失のものを処罰することがいけないなどとは一言半句もいつていないのである。ただ、その定め方が同条章から問題とされる場合もあり得るであろうが、前示入場税法の規定が同条章に照してみても、違憲とされる余地のないことは上来説示したところによつて、すでに明瞭であろう。それ故私は本論旨は理由のないものと考え多数意見の結論に同ずるものであるがしかし多数意見は憲法が無過失処罰を違憲としていることを立論の前提としているものであつて、到底首肯し難い。また、私は、わが成法の下における両罰規定には冒頭説示のとおり各種の場合があるに拘らず、多数意見はたやすくこれを一括同視したことを遺憾とすると共に、多数意見の結論が税務一般ならびに裁判の実務の上に至大の悪影響を及ぼすであろうことを思い、これに反省の機会の到らんことを望んでやまない。」

下飯坂氏のいわれるように、両罰規定にも各種の立法形式がある。そしてその形式上の相違は、刑法においては、正に重要である。立法例の年代的変遷にすぎない。・・・などという理由で、その相違を看過することはとうていゆるされない。形式的差異にもとづいて、その通りに適用せられ、その有効無効を断ぜねばならぬ。本件においては、事業主の過失は推定されていない。過失推定が全くないのに、過失推定の論理で解釈するとは、なんという不合理であるか。

損害賠償制度と刑罰とは、根本的に別異の観点と理論に支配される。

下飯坂氏は、両罰規定を合法とする根拠として、大別すれば二学説があり、その一つは過失責任説で、他の一つは無過失責任説であるとされるが、それらが根拠となりうるか否かは、もつぱら刑法理論によつて決せられねばならぬ。刑法では、多数意見のような、立法形式を無視してしまうことはゆるされないのであり、形式的差異に従わねばならぬこと、下飯坂氏のいわれるとおりであるので、過失犯処罰規定ではない本件で過失責任説をとる余地は全くない。残るところは、他の一つである無過失責任説を容認しうるか否かのみである。

無過失刑事責任-そのこと自体が、これをみとめれば刑法の破かいとなることを示している。その人が他人の行為に対し意識して原因をあたえた場合でなければ、刑事責任を負わないのは、当然のことである。自明の理である。「責任なき処罰は不正であり、不正であるが故にたとえそれが国家に金銭的収入をもたらそうとも、それは国家を害することになる。」(ヒツペル)

近代の複雑な社会構造においては刑事においても、民事におけるような、いわゆる代替責任ないしは無過失責任を認めることなしでは、到底法秩序の安定を期し得ない」などということは、全くないのであり、「それが近代法の当然の要請でもある」などということも、真実ではない。行政取締のわく内で必要ならば行政罰によつて処理すべきであり、刑罰をもつてすべきではない。行政法に従うべきであり、刑法の分野に破かい的害悪をもち込むべきではない。金刑に限局されているからゆるされるということもない。いやしくも刑罰によるべきではないのであつて、金銭的処罰がどうしても必要ならば、刑法の支配しない行制罰により、過料によつて、十分な処理も処罰も可能である。しかるに、刑法によらねばならぬと妄想するところに近代的刑法の当然の要請に対する理解の不足が嘆かれるのである。刑罰万能思想の害悪の冒しつつあるのをみるのである。

従業員の行為は、従業員という自然人の行為であるから有責なのであつて、近代的刑法は、「従業員の当該業務に関して為した事業上の行為は同時に事業主自身の行為と看做して一向に妨げない」

下飯坂)などという見解を、純対的に拒否する。

下飯坂のいわれるように、「本件改正前の入場税法一七条の三の事業主の責任なるものは・・・従業員の違法行為の存在だけを構成要件とし、その他の要件の附加されることを予定していない事業主独自の責任であり、いわゆる転嫁責任でもなければ、また多数意見の立論の根拠となつている監督上の過怠責任でもない」のであつて、その故に当然無効なのである。「多数意見は憲法が無過失処罰を違憲としていることを立論の前提としている」のが、正しいのであつて、下飯坂のように、憲法「無過失のものを処罰することがいけないなどとは言半句もいつていないのである」とか、「憲法は無過失(狭義)処罰(他人の行為に対して無過失責任を負う場合を含む)を禁じているのであろうか、私の見るところではそんな規定は憲法のどこにもないのである」とかは、トルツメにより上げて論ずるまでもない不合理なものであるが、憲法は明らかにこのような不合理と不法を禁し、本件のような無過失処罰を違憲としている。不可抗力の場合に事業主を刑罰に処する立法をした者は、違憲の責を負うべきであり、不可抗力の場合に事業主に現実に刑罰を言渡した者は、人間として責を感ずべきである。わたくしのように、反対説を述べる必要はあるのである。

八木、業務主体処罰規定の研究(昭和三〇年) 大谷、両罰規定に関する一考察(法と政治一巻三、四号)木村静子、両罰規定(判例百選一七四頁) 大塚仁、両罰規定における業務主処罰の論拠(行政判例百選二二八頁) 金沢、法人の刑事責任・両罰規定(綜合判例研究叢書刑法一七) 福田平、両罰規定(憲法判例百選一三〇頁) 定塚、代罰責任・法人の犯罪能力(刑法講座三巻末尾の論文)

などが、この問題に関する主な文献であるが、わたくしのものを除き、無理にでもこの規定を有効であるとしたい気持が現われているのは、なげかわしいことである。

これに関しての従来一般的におちいつている誤解として、

「法人の業務に関連して行われる違法行為は、いわば現代社会の必然的現象であつて、その規模も単なる個人犯罪よりも大きいばあいが多い。このような違法行為を防止するには、よるべなきわら人形である犯罪行為を行つた従業者のみを処罰の対象としていたのでは十分に効果的ではなく、違法行為の効果を実質的に受ける法人じたいをも取締りの対象とする必要がある」(板倉宏氏の記述からの引用―ただし同氏の主張ではない)

というがごときことは、真実ではない。行為者、従業者のみを処罰の対象とすれば十分であり、それのみが効果的な刑である、刑罰に過大な期待をよせることの誤りを知つて、民事司法および行政における正義の貫徹と相まつての刑事司法の機能を考慮するならば、法人に対しては十分な経済上の賠償や補償を支払わせることこそ必要であつて、刑罰は有害かつ無益であることが判明すると思う。必然的現象ではない。従つて、平野龍一氏の、

「法人処罰も、特別法の片隅の便宜的な制度から、もつと中央の舞台に乗り出してきつつある。英米法のように、すべての犯罪について法人を処罰するところまでゆくべきかは、しばらくおくとしても、過失致死。名誉毀損猥褻物販布などの罪については、法人処罰が考えられなければならなくなるであろう」(平野龍一刑法の将来と課題ジユリスト一九五号八頁)

という所見に対しても、賛意を表することはできない。他人の行為による刑事責任をみとめることはできないし、犯罪主体と刑罰主体との不一致という最大の不正を許容することはできない。刑罰の形式をこのような仕方で悪用することは、罪刑法定の許さないところであり、刑事司法の根底と刑法の根本精神を破かいする以外のものでもない。(板倉・法人処罰に関する基本的問題法学紀要第五巻所収、参照)

両罰規定における業務主処罰の論拠

最高裁昭和三二年一一月二七日大法廷判決

(昭和二六年(れ)第一四五二号入場税法違反被告事件)

(刑集一一巻一二号三一一頁)

(事実の概要)

被告人Xは、昭和二二年二月頃から同年一二月まで、キヤバレーを経営し、客から入場料をとつてダンスをさせることを業としていたが、その間、支配人として使つていたYらが、入場税中八〇万円余を 脱し、または逋脱しようとした。原審裁判所(東京高裁)は、このYらの行為に基づき、当時の入場税法一七条の三(業務に関する従業者の逋脱行為につき、業務主をも処罰する旨の両罰規定であつた)を適用して、Xを罰金四〇〇万円余に処した。弁護人の上告論旨は、Xは、Yらの違法行為には関与していないから不可罰であり、右入場税法の規定は、違法行為のみを処罰する趣旨を規定した憲法三九条前段に違反するから、無効であると主張する。

(判旨)

最高裁判所は、つぎのように述べて上告を棄却した。「しかし、同条(註、旧入場税法一七条の三)は事業主たる、人の「代理人、使用人其ノ他ノ従業者」が入場税を逋脱しまたは逋脱せんとした行為に対し、事業主として右行為者らの選任、監督其の他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定した規定と解すべく、したがつて、事業主において右に関する注意を尽したことの証明がなされない限り、事業主もまた刑責を免れ得ないとする法意と解するを相当とする。それ故、両罰規定は故意過失もなき事業主をして他人の行為に対し刑責を負わしめたものであるとの前提に立脚して、これを憲法三九条違反であるとする所論は、その前提を欠くものであつて理由がない。」

これに対しては、田中、斎藤、下飯坂各裁判官の補足意見がある。

(田中、斎藤両裁判官の補足意見)入場税法一七条の三は、刑法三八条一項但書および同法八条但書にもとづく規定であつて、刑事責任を負うのに故意も過失も必要としないものである。徴税を目的とする法律において、取締りの目的を達するために、資力のある業務主をも罰して、これから税金に代る罰金を取り立てようとするのである。

(下飯坂裁判官の補足意見)わが法制下の両罰規定には、(一)事業主に無過失の証明のあつたことを免責事由としつつ、両罰の根拠を過失に求めようとするもの、(二)事業主の行為者に対する監督取締上の過失責任ないし違法結果防止義務の懈怠または違法行為怠起の共犯責任を処罰の根拠とするもの、および(三)従業者の違反行為によつて無条件に事業主を処罰するもの、の三種類を分ちうるが、(三)が両罰規定の典型であり、本件入場税法一七条の三もこれにあたる。けだし、近代の複雑な社会構造下においては、刑事上も、いわゆる代替責任ないし無過失責任をみとめることなしには、とうてい法秩序の安定を期しえないからである。両罰規定の根本理念は、事業それ自体の中に存するのであり、多数の従業者を包擁結合し、有機的な組織機構において営まれる経済活動においては、業務に関する従業者の事実上の行為は、同時に事業主自身の行為と看做してさしつかえない。ここに、従業者の違反行為に対して、事業主にも、その刑責を問いうる根拠がある。なお、憲法三九条前段の規定は、いわゆる事後法の禁止をうたつただけのもので、所論のばあいには関係がない。

(解説)

一 本件では、両罰規定である旧入場税法一七条の三と憲法三九条前段との関係が問題とされているが、憲法三九条前段に、「何人も、実行の時に適法であつた行為・・・については、刑事上の責任を問はれない」と規定された趣旨は、下飯坂裁判官も説かれるとおり、単にいわゆる刑事事後法の禁止をさだめただけであつて、旧入場税法一七条の三の規定とは、なんら直接の関係を有するものではない。この点、判旨は、上告論旨に引きずられて無用な思考に堕している嫌いがある。しかし、その違憲の主張を却けるために判旨によつて示された、両罰規定における業務主処罰の理論的根拠の点には、十分注目されるべきものがある。以下には、この点のみを問題としよう。

二 両罰規定において、従業者の違反行為について業務主の処罰される理論的根拠に関しては、従来の学説上、転嫁(代位)責任説と過失責任説とが対立している。転嫁責任説は、業務主の責任を、従業者の責任が転嫁(代位)負担させられるものであり、行政的取締の目的にもとづく無過失責任であるとみる(泉二・法窓余滴二三頁、牧野・警察研究一二巻一号二一頁、一五巻一号一三頁以下)のに対し、過失責任説は、これを、従業者に対する選任、監督上の義務の懈怠にもとづく業務主自身の過失責任と解する。そうして、その過失責任の意味については、さらに、両罰規定によつて業務主の過失が当然に擬制されているとみる立場(小野・刑事判例評釈六巻一三六頁、なお、田中・警察研究一三巻七号八九頁以下、但し、同一四巻七号五八頁)と、過失の推定がなされていると解する立場(美濃部・経済刑法の基礎理論二〇頁以下、草野・刑事判例研究五巻四四頁、佐伯・新法学の課題三〇五頁、八木・業務主体処罰規定の研究八〇頁以下、福田・行制刑法五六頁等)とが区別される。その後者においては、業務主は過失失を立証することによつて責任を免れうるのに対して、前者にあつては、さような反証は許されないのである(なお、業務主処罰のために、その過失の立証を要するとする趣旨の見解として、飯塚・日本法学九巻二号六四頁)。

ところで、従来の判例は、転嫁責任説に拠つていたのであつた。とくに、戦時中の国家総動員法四八条の両罰規定に関し、大審院によつて示されていた。「従業員ガ同条列挙諸法条ノ違反行為ヲ為シタル結果、其ノ主人ガ処罰セラルル場合ニ在リテハ、該違反行為ノ遂行ニ付、主人ノ行為乃至意思ハ何等介入セズ、単ニ行為者タル従業員ノ違反行為ニ付、主人トシテ従業員ト同一罪責ノ下ニ処罰セラルルモノナルコト同条ノ法意ニ照シ疑ヲ存セズ」(大判昭和一六年一二月一八日刑集二〇巻七〇九頁)とか、同条は、「営業者ノ代理人ガ、其ノ営業者ノ業務ニ関シ、同条列挙法条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ営業者ニ故意又ハ過失アリタルト否トヲ問ハズ常ニ之ニ対シ同条所定ノ刑責ヲ負ハシムル注意ナルコト疑ヲ容レ」ない(大判昭和一七年九月一六日刑集二一巻四一七頁)とか、同「条ノ規定ハ、従業者ノ一定ノ行為ニ付、法人又ハ人ヲ処罰スルモノニシテ、所論ノ如ク法人又ハ人ニ於テ従業者ヲ雇入又ハ選任スルニ付不注意ナリシカ、若ハ其ノ監督不行届ナリシコトニ付、法人又ハ人ヲ処罰スルモノニ非ズ」(大判昭和一七年七月二四日刑集二一巻三一九頁)とする等の一連の判例においてその趣旨が明瞭である(なお、大判昭和一八年三月二九日刑集二二巻六一頁、最判昭和三〇年一〇月一八日刑集九巻二二五三頁等)

これに対して、本件判旨は、過失責任主義に立ち、かつ、業務主に過失の推定をみとめた点において、まさに劃期的な意義を有するものである。同様な趣旨は、下級審の判例としては、すでに昭和二六年九月一二日の福岡高裁の判決(高裁刑集四巻一一五八頁)等にみられたが、最高裁判所によつてみとめられたのは本件が最初であるとともに、この態度は、その後の判例でも踏襲されている(最判昭和三三年二月七日刑集一二巻一一七頁)。したがつて、本件は、過失責任主義についてのリーデイング・ケースといいうるであろう。なお、田中、斎藤、下飯坂各裁判官の補足意見は、いずれも業務主の無過失責任を論じ、従来の判例の立場を維持しようとされるものにほかならない。

三 行政的取締の実効を期するために業務主の無過失責任をみとめようとする、立場にも、形式的には一理がないわけではない。しかし 刑事責任の本質は、民事責任におけるとは異なり、行為者に対する道義的非難を核心とするものでなければならない。行為者自身の故意または過失行為についてのみ、これを非難しうるとする責任主義の原則は、まさに、近代刑法の基調とされてきたところである。

無過失の転嫁責任の思想が、この意味における刑法の理念に反することは明らかである。そうして、これは、いわゆる自然犯、刑事犯と法定犯、行政犯とにおいて異なつて理解されるべきでない。行政的取締の必要をいかに強調するとしても、犯人自身に対する道義的非難をはなれてその刑事責任の論ずるのみでは、刑罰の目的を十分に達しがたいこというまでもないからである(印紙税法一四条のごときは、まつたくの例外規定と解すべきである)

かようにして、過失責任主義が支持されねばならない。ところで、その際、業務主の過失責任が擬制されるものと解するときは、形式的には責任主義を標榜しつつも、実質上は、無過失の反証を許さない点において、業務主に転嫁責任を負担させるのと異ならぬであろう。これに対して、業務主の過失が推定されるとみるときは、一面、取締りの実効を考慮しつつ(過失の存在をつねに立証すべきものとする立場によるときは、業務主の処罰は往々にして期しがたい虞れがあるであろう)他面、真に不可抗力にもとづく事態に対しては、卒直に業務主の免責をみとめて、道義的非難の実質的意味を確保しうるのである。。

なお、両罰規定中にも、業務上、種々の立法形式のものがみられること下飯坂裁判官の指摘されるとおりである(これにつき、八木・前掲一三頁以下、大塚・特別刑法六頁以下)。その用語例上のニユアンスを解釈論上まつたく無視し去ることは許されぬであろう。だが、それらの形式的相違が、主として立法例の年代的変還に由来することも、また否定しえる事実であつて、そこから、用語例上の形式的差異にもとづいて、ただちに両罰規定の実質的内容まで異なるものと解することは決して適当ではないとおもう。各種の規定の趣旨を具体的に考察するときは、むしろ、一般に、両罰規定には、従業者の違反行為について、業務主の選任、監督上の過失責任が推定されていると解すべきではなかろうか。

かようにして、両罰規定における業務主処罰の論拠に関する本件判旨は、正しい理論的態度に出るものとして支持されるべきである。

(参考文献)

八木胖・業務主体処罰規定の研究五二頁以下、「両罰規定における業務主体処罰規定の性質」判例評論一二号一頁以下

福田平・行政刑法(法律学全集)五三頁以下、「両罰規定と事業主の責任」判例演習(刑法総論)一六頁以下。

木村静子・「両罰規定」ジユリスト二〇〇号一七四、一七五頁。

高橋勝好・「両罰規定における業務主体処罰の原理」

警察研究二九巻七号三頁以下、九号三一頁以下。

大塚仁 名古屋大学教授 ジユリスト臨時増刊行政判例百選二二八頁以下)

大塚教授の右の所見も、右の大法廷判例も両罰規定がいかに不合理な存在であるかを認識させる点についてのみ価値があるのである。かゝる不合理な規定のもとに、武相砂利株式会社に対して二千五百万円という巨額の罰金を科することはできない。疑問があり、不合理であることをみとめることは、当然に量刑についての考慮につながる。すなわち、同会社に対する科刑を大巾に減額することが、現実になすべきことであり、不必要な法人起訴にもとづく禍害を実際に防ぐに役立つ次第である。

第四 武相砂利株式会社に対する二、五〇〇万円の罰金は法の精神を誤つたため不当に重く科せられたものであり、当然減額せらるべきである

原審は武相砂利株式会 に対して、二千五百万円という極めて多額の罰金刑を言渡した。このように多額の罰金を科することは、税法の組識や構成を全体的に理解しなかつたためであり、法の精神に反する重刑である。

まづ、藤木東大教授の所説と判例をみることとする。

追徴税と罰金との併科と憲法三九条

最高裁昭三三年四月三〇日大法廷判決

(昭和二九年(オ)第二三六号株式会社寿屋対東税務署長・国事件)

(民集一二巻六号九三八頁)

(事実の概要)

上告会社(原告・控訴人)は、昭和二四年三月、被上告人(被告・被控訴人)大阪東税務署長に対し、同社の昭和二三年度分法人税を納付したが、その後、東税務署長は、大阪国税局の査定に基き、昭和二四年七月の通知で上告会社に対し同年度の課税標準の更生決定し、上告会社に対して、法人税法四二条による加算税額のほか、(旧)四三条による追徴税(逋脱金額の二五パーセント)三三三万七千五百円その他の賦課、上告会社は同年八月三一日これを完納した。他方大坂国税局は昭和二四年七月、上告会社および同会社申告事務責任者Oを法人税一、三〇〇万円余を逋脱したものとして大阪地検に告発、七月二五日起訴、八月二七日大阪地裁において、起訴事実全部が認められ有罪判決があり、上告会社に対して罰金三、〇〇〇万円、Oに対し徴役八月(執行猶予)が宣告され、同判決は同年九月一〇日確定した。上告会社は、前記の、加算税および追徴税を含む更生決定の処分の取消と、納付税額の還付を求めて民事訴訟を提起、種々の理由をあげて、更生決定の違法、ことに、追徴税の賦課処分の違法を主張したが、本件判旨と関係ある部分は、要するに、旧法人税法四三条による法人税逋脱の場合に科せられる逋脱税額の一〇〇分の二五の追徴税は、名目上税金となつているが、その実質は納税義務違反に対する刑罰と解すべきであるから、刑事判決により、逋脱犯に対して罰金が科せられるべきものである以上、さらに追徴税を賦課にすることは、憲法三九条の一事不再理の原則に反するというものであるとの主張その他をなした。原審(大阪高等裁判所)はこの主張を斥け、憲法三九条違反の主張に対しては、「・・・追徴税は国家の徴税行政の秩序を維持するため納税義務違背の法人に対し租税の形式で課せられる行政上の秩序罰即ち過料的制裁であつて詐偽その他不正の行為により法人税を免れ以て国家の徴税権を侵害する反社会的犯罪行為に対する法第四八条第三項所定の刑罰である罰金とはその性質を異にするものと解すべきである。それ故、法第四八条第一項の場合即ち詐偽その他不正行為により法人税を免れた場合において一方で逋脱犯として刑罰に処し他方秩序罰なる追徴税を課しても、同一犯罪につき重ねて刑事上の責任を問うものでないから、何等一事不再理の原則に反するものでない。」とし、その他の主張についてもいずれもその理由なしとして、請求棄却の第一審判決を維持した。上告人はこれを不服として上告し、とくに憲法三九条論に力を入れて原判決の正当性を争つた。

(判旨)

最高裁大法廷は、上告を斥けて次のように判示する。

「法人税法・・・四三条の追徴税は、申告納税の実を挙げるために、本来の租税に附加して租税の形式により賦課せられるものであつて、これを課することが申告納税を怠つたものに対し制裁的意義を有することは否定し得ないところであるが、詐偽その他不正の行為により法人税を免れた場合に、その違反行為者および法人に科せられる同法四八条一項および五一条の罰金とは、その性質を異にするものと解すべきである。すなわち、法四八条一項の逋脱犯に対する刑罰が「詐偽その他不正の行為により云々」の文字からもうかがわれるように、脱税者の不正行為の反社会性ないし反道徳性に着目し、これに対する制裁として科せられるものであるに反し、法四三条の追徴税は、単に過少申告、不申告による納税義務違反の事実があれば、同条所定の己むを得ない事由のない限り、その違反の法人に対し課せられるものであり、これによつて、過少申告、不申告による納税義務違反の発生を防止し、以つて納税の実を挙げんとする趣旨に出でた行政上の措置であると解すべきである。法が追徴税を行政機関の行政手続により租税の形式により課すべきものとしたことは追徴税を課せらるべき納税義務違反者の行為を犯罪とし、これに対する刑罰として、これを課する趣旨でないこと明かである。追徴税のかような性質にかんがみれば、憲法三九条の規定は刑罰たる罰金と追徴税とを併科することを禁止する趣旨を含むものでないと解するのが相当であるから所論違憲の主張は採用し得ない。」

(解説)

一 法人税法(所得税法、有価証券取引税法等においても同じ)は、詐偽その他不正の方法により法人税を免れた者に対しては刑事罰をを科するとともに、他方において、税金の形式(重加算税、過少申告加算税等)で、納税申告を過少にした者等に対して、一定の金額を追徴することにしている。(同法四三条、四三条の二、四八条)。そこで、詐偽または不正の方法で法人税を逋脱した者に対しては、刑事罰として懲役又は罰金刑が科せられるほか重加算税等の税金の形式で一定の金額が追徴されることになる。ところで、ここで追徴される税額は、逋脱金額に一定の率を乗じた金額で、徴罰的色採を帯びたもので、刑事罰と並んで、二重に不利益を科せられるようなことになる。かような制度の合憲性が問題となつたのが本件である。本件では昭和二五年改正前の追徴が問題となつているが、現行法の規定(重加算税等)についても同じことが問題になる。本件は、専ら憲法三九条の関係で問題がとりあげられた。憲法三九条は本来、刑事手続につき一事不再理の原則を確認したものであるが、形式的には刑罰でなくても、実質的に独立した刑事制裁と認め得べきものを、刑事手続以外の手続で重ねて科することをも禁ずる趣旨も含むと解することができよう。もつともこの場合には、実質的に刑罰と認むべきものを、刑事手続以外の手続で科することを、憲法三一条、三二条等の関係で問題とするほうがむしろ先決であるとも解せられる。いずれにしても、追徴税(現行法の重加算税)の性質いかん――それが行政上の制裁であることは否定できないとして、刑事罰たる罰金刑としての性質を要するかが問題の中核をなすのである。

二 判旨は、追徴税が刑罰でない所以を詳しく説明し、その点についての説明は尽きているともいえるのであるが、ただここで注意しなければならないのは、租税罰則に関する法律見解が、戦争中戦後の租税罰則の強化を境として大きく転換し 科せられる刑罰の性質が、本来の刑事罰に近づいてきたという事情があり、そのような背景のもとにおいて、判旨の結論の妥当性が理解されなければならないということである。戦前の一般的な考え方は、行政判に対する刑罰は、行為の反社会性に対する道義的。倫理的非難を背景とした通常の刑罰とはその目的に於て異り、行政法規の実施を担保する一種の強制手段として、法に違反する事実状態に着眼して科せられるものであることが、ことに行政法学者によつて強く主張されていた。就中、租税罰則、ことに逋脱犯に対する罰金刑については徴税権の確保を期する一種の政策的見地から、租税の減収を予防し、且つ犯則者に脱税額を賠償せしめることがその目的であると説かれ、大審院判例でも、(税法違反の制裁トシテ科スル所ノ罰金ハ名ハ刑罰ナルモ其ノ性質ニ於テハ脱税ニ対スル一種ノ賠償処分・・・」であると説いたことがあつたように(大判明治四〇年一〇・一〇刑録一三輯一〇九六頁)、それは本来の刑罰ではなく、行政上の目的の実施担保の手段として刑罰という形式を借用したものと解せられ、行政上の秩序罰たる過料との区別は極めてあいまいであつた。刑罰も、罰金刑を中心とし、しかも、その罰金額の定め方も、 脱額の何倍というような定額刑主義がとられ、裁判所が、犯情を考慮して刑を量定する余地がなかつた。つまり、罰金の名において一種の追徴税が徴収されていたわけである。かような背景のもとに本件追徴税の性質を考えてみると、 脱行為に対する刑事罰たる罰金と実質的な区別を見出す事は困難となるのである。

三 しかし戦争中から戦後にかけて、罰則が強化され、犯則者に対して自由刑が科せられるようになつていらい、租税犯に対する刑罰は単なる租税収入確保の手段としての倫理的に無色な性格から、次第に本来の刑事制裁的色採を強めるようになり、罰金の定額刑主義は次第に拾てられ、犯情に応じた量刑がなし得ることとなり、犯罪の性質そのものも、国庫収入の脅威ということから、むしろ不正手段で納税義務を怠れる行為の背徳性――ある意味で自然犯的性質をもつ――に対する倫理的非難の面が全面におし出されてきた。本件法人税法においてもすでに犯則者に対する刑に自由刑が加えられ、また罰金の定額刑主義は拾てられている。したがつて、このような事情を背景にすれば、犯則者に対して、犯情のいかんを問わず定額的に課せられる追徴税は、判旨のいうように専ら租税収入の確保に着眼した行政上の制裁 過料の一種 とみるべきもので、刑罰としての実質を有しないとみてよいであろう。かくして、追徴税が刑罰(罰金)であるという前提が崩れた以上刑法三九条違反の問題は生じて来ないわけであり、同時に憲法三一条・三二条違反の点も論ずるに足りないことになるのである。

もつとも、現行法では、旧規定の追徴税は、無申告加算税、重加算税に二分され、後者については、課税標準等の計算の基礎となる事実の隠ぺい又は仮装のあつた事を要件とし、刑事罰的色採をやや強めているのであるが、これだけではなお行為の反倫理性にとくに重点がおかれているとまではいいきれないから、旧規定の判例の趣旨は現行法にもそのままあてはまるとみてよかろう。

(参考文献)

美濃部達吉・行政刑法概論

板倉宏・租税刑法の基本問題

なお本稿の叙述は、右記板倉氏の著作に負うところが大きいことを附記する。

(藤木英雄 東京大学教授 ジユリスト臨時増刑行政判例百選二三〇頁以下)

この案件は、三百三十三万円余円の追徴税を科された上、大阪地裁において罰金三千万円を科されたことに関するものである。法人税ほ税の場合に科せられる追徴税は、その実質が納税義務違反に対する処罰であることは、常識の上からは疑いえないものである。追徴税という税金であるという論は通らない。名目上税金となつていることから、これを税と解することの不当であることは、大阪高等裁判所判決にも明らかである。すなわち、その大阪高裁判決にいわく、「・・・追徴税は国家の徴税行政の秩序を維持するため納税義務違反の法人に対し租税の形式で課せられる行政上の秩序罰即ち過料的制裁であつて、・・・秩序罰なる追徴税を課し・・・」である。この判決は、税でないこと、税というのは名のみで、真実は税ではなく、追徴税は秩序罰、行政罰そのものであるといつているのである。すなわち、わたくしが前記したとおり処罰であつて、税金ではないといつているのである。「過料的制裁」とはわが国法上「行政罰」と同一義であり、「秩序罰」とはわが国法上「行政罰」と同一であることはいうまでもない。本件において、武相砂利株式会社が、ぼう大な重加算税を課せられ、既に支払い、現に支払いつゝあることは後述する。この重加算税は、右の大法廷判例にいう追徴税と同一義に解してよいであろうし、税の名目を有するが税でない点など、そのまま適用理解してさし支えないであろう。

大法廷判例も、「法人税法四三条の追徴税は、・・・・本来の租税に附加して租税の形式により賦課せられるものであつて、これを課することが申告納税を怠つたものに対し制裁的意義を有することは否定し得ない」という。制裁であり処罰であり、行政罰であつて、税ではないことを明示するものと理解してよいであろう。

本件において弁護人は、重加算税という行政罰のほかに、刑罰を科せられることそれ自体を非難するものではない。行政罰と刑罰とがその性質を異にするという抽象論については大法廷判例のいうとおりである。しかしながら、両者は同一の行為について科せられるものである以上、両者の間に関連あることを忘れてはならない。その「関連」を問題としているのである。また、課税上のすべての税金を納入したのちに問題とされている重加算税と罰金の関連であることも忘るべきではない。

法人税法は、法人そのものを義務者とし、対象として条文を設けながら、罰則のところでは、突如として行為者個人、行為者たる自然人に対する罪と刑との規定するのである。対象が法人から個人に急変するのである。これは刑法の原則上、刑法典総則の支配上、やむをえないところであるが、その個人、行為者を対象とした「詐偽その他不正の行為」「偽りその他不正の行為」という犯罪構成要件が犯罪構成要件として不法なもの、違法なものであり、効力のないものであることはすでにのべたからくり返さない。一広これを有効な構成要件とその仮定の上で論をすすめることとする。

右の犯罪構成要件により科せられるものが、反道徳性、反社会性、犯罪性の故に、罰金その他の刑罰が科せられるのである以上、ここでは、刑法的基準によつて科せらるべきであるのに、本件の科刑は刑法的基準によつてではなく、税法的基準によつており、この点はみのがすことができない。すなわち、脱税犯として悪質の程度によつて決すべきで、税の金額によつて量刑してはならない。本件罰金は税金の金額により、相場的に科せられており、刑罰本来の量刑方法に従つていない点で違法である。同じ額の不申告による納税義務違反といつても、刑法的観点からみれば、雲でいの差があるのは当然で、本件のごときは、どの観点からみても、刑法的な悪性はない。不起訴にせらるべき事案であるが、起訴せられた以上は極めて軽い罰金刑が相当である。

何故不起訴にせらるべきであるかの理由を検討する。本件について起訴を必要と考えた検察官、原審においておそるべき重い罰金刑を言渡した裁判官は、過少申告や不申告による納税義務違反の発生を防止し、以つて納税の実をあげるために必要であると考えたのであろう。しかしながら、このことは、本件について多額の延滞利子税、重加算税過少申告加算税がすでに科されていることを忘れているのである。重加算税は、「これによつて、過少申告・不申告による納税義務違反の発生を防止し、以つて納税の実を挙げんとする趣旨」ですでに十分に科されているのであるから、本件のような情状の軽いもの(立合検察官もこれをみとめた論告をしている)については重刑に価しないのであり、刑罰を必要としないのである。さらに、重ねて刑罰を科する必要がないのである。(前記「」の内は大法廷判例であり、大法廷判例が追徴税(重加算税)という行政罰を科する法理論をのべた部分であるから、もつとも権威に価するものである)

法が追徴税、重加算税を行政機関の行政手続により、租税の形式により課すべきものとした以上は、以上の実質を無視して、いかなる重刑も、いかなる刑罰も、いかなる過大な罰金刑も大いに科すべきものであるという論は、ゆるすことができない。憲法三九条の規定が、刑罰たる罰金と重加算税という行政罰とを併科すること禁止する趣旨でないというのは、単なる抽象的な理論にすぎない。具体的に、実際に刑事司法的観点からみるならば、両者の関連はかくすことができないのであり、従つて、事案の判断には幾何の重加算税が課され、それがいかなる手段によつて、いかように納入されたかを考慮することなくして刑罰を科してはならない。過大な罰金をその考慮なくして言渡してはならない。

法人税法の規定によれば、重加算税として延滞利子税のほかに(延滞利子税も利率のおどろくべき高りつなど、処罰的性質が多大で、制裁であり、税ではないとみることができる)重加算税を科するのは、ほ脱金額に一定の率を禁じた金額で行われるのであり、処罰ないし制裁として科されるのであるから、刑事罰(罰金)と並んで二重の利益はく奪を行うものであることは疑う余地がない。

憲法三九条は、このようなばあい、形式的に刑罰でさえなければ、実質的に独立した刑事制裁とみとめられるものを、重ねて科してよいとするものであるか疑わしい。また、刑事手続以外の手続、たとえば本件のように一種の行政手続あるいは、納税せしむるという課税の名目でありさえすれば、どのように二重制裁の実質をそなえていても何ら考慮する必要がないといつているのか否か疑わしい。

憲法三一条、三二条は、実質的に刑罰とみとむべきものを、刑事手続以外の手続で科することを禁止しているのではないか。本件の重加算税が、名目は租税でも租税でなく、表面は行政罰、行政上の制裁であつても、本件のようにか酷にわたる事案では、その実質罰金と異らず刑罰と異らずとすれば、原判決の数千万円に及ぶ罰金刑は、正に憲法三一条、三二条に違反して科されたものであり、少くとも右憲法法条の精神に反するものとして、著しく減額せらるべき法律上の理由を存するものであるといわねばならぬ。大法廷判例か、重加算税は制罰でないという解明を詳しく行えば行うほど、二重の制裁、二重の不利益の不合理が歴然として表面化するのは何故であろうか。

租税刑法の理念として、戦前の罰金刑は徴税権の確保を期する一種の政策的見地をとつており、租税の減収を予防し、併せて、納税者に脱税額を賠償せしめるための罰金額とされていた。従つて、弁護人がここに主張するような、刑事罰としての本来の理論がかえりみられない傾むきがあつた。大審院判例もこれをみとめていたことは藤木東大教授も指てきしている通りであり、罰金額は、当時の税法によりほ脱額の何倍という定額刑を確定的に算出言渡すことになつており、裁判所は犯情を考慮して刑を量定してはならないことになつていた。その法規の通り行われてもいた。原判決は誤つて、この古い戦前の観念原則にとらわれて、本件につき、実体にそわない重刑を言渡す結果となつたのである。しかるに、戦後は道義的、倫理的違反を本質とする通常の本来の刑事罰と解され、その観点から法人税法罰則を制定したのである。故に、本件につき、一般刑事罰や一般の罰金にあたる事件と同じように、犯情を考慮し、犯罪構成要件を考慮し、刑の量定をこの観点から行わねばならなくなつたのであつて、戦前の考え方をすてて、はじめて法の精神にそうた適切な量刑をなしうるものである。量刑はよいかげんでよいということはなく、法的に法の精神に従つて行われねばならぬ。それが刑事司法を法的に行う唯一つのみちである。罰金の定額刑主義をすてて、犯情に広じた量刑をすることが法人税法の精神であることを強調したい。国庫の収入をはかるための量刑ではなく、犯罪の性質そのものによる量刑であれば、原判決のような数千万円のかこくな罰金刑の言渡がなされるはずがなかつたのである。法人税法違反は法人税法の精神に従つて科刑せられねばならぬ。

次に、北海道大学助教授田宮裕氏の所説をみたい。

罰金と追徴税の併科

最高裁昭和三三年四月三〇日大法廷判決

(昭和二九年(オ)第二三六号株式会社寿屋対東税務署長・国事件)

(民集一二巻六号九三八頁)

(事実の概要)

原告会社(控訴人・上告人)は、昭和二二年度分の法人所得を、同二四年三月、被告(被控訴人・被上告人)である税務署長に申告し、同日その法人税を納付した。ところが、大阪国税局は、同年七月法人税の逋脱があつたという理由で、原告会社及びその申告事務責任者であつた総務部長の両名を、法人税法違反として大阪地検に告発した。同地検は、両名を同月二五日大阪地裁に起訴したが、八月二七日有罪の判決があつた。この判決によつて、原告会社は、罰金三、〇〇〇万円に、総務部長は懲役八月(三年間執行猶予)に処され、九月十日に確定した。

他方、これより前に、被告東税務署長は、大阪国税局の査定に基づき、七月三一日付の通知書で、原告会社に対して法人税法(旧)二九条による更正をし、同四三条による追徴税賦課の決定をしたので、原告会社は、八月三一日法人税、同加算税のほか右追徴税を含めた一切を所轄税務署へ納付した。

原告は、これに対して東税務署長の追徴税金の決定を取り消すことを要求し、納付税額の返還を求める民事訴訟を提起した。「追徴税は名目は税金となつているが、その実質は納税義務違反に対する刑罰と解すべきである。もし逋脱犯について刑事の確定判決があるのに拘らず、之に右追徴税を課したならば、之は憲法三九条の一事不再理の原則に反するのみならず、税法運用上の見地からも、徒に税法の苛酷感と不条理感とを国民に与え、その反感を助長するに止まるものとして非難されるであろう」といつて争う。

原審は、次のようにいつてしりそげた。「追徴税は国家の徴税行政の秩序を維持するため納税義務違背の法人に対し租税の形式で課せられる行政上の秩序罰即ち過料的制裁であつて詐偽その他不正の行為により法人税を免れ以て国家の徴税権を侵害する反社会的犯罪行為に対する法第四八条第三項所定の刑罰である罰金とはその性質を異にするものと解すべきである。それ故、法第四八条一項の場合即ち詐偽その他不正の行為により法人税を免れた場合において一方で逋脱犯として刑罰に処し他方秩序罰なる追徴税を課しても、同一犯につき重ねて刑事上の責任を問うものでないから、何等『一事不再理の原則』に反するものではない。」

原告は、旧法人税法四三条は新法の四三条の二の「事実を隠ぺいし又は仮装し」という場合も含むが、それは「詐偽其他の不正行為により法人税を免れる」ことそのものであるから、逋脱犯として罰した上、追徴税をとることは、二重問責に触れるといつて、再び争つた。

(判旨)

「法人税法、四三条の追徴税は、申告納税の実を挙げるために、本来の租税に附加して租税の形式により賦課せられるものであつて、これを課することが申告納税を怠つたものに対し制裁的意義を有することは否定し得ないところであるが、詐偽その他不正行為により法人税を免れた場合に、その違反行為者および法人に科せられる同法四八条一項および五一条の罰金とは、その性質を異にするものと解すべきである。すなわち、法四八条一項の逋脱犯に対する刑罰が、「詐偽その他不正の行為により云々」の文字からもうかがわれるように、脱税者の不正行為の反社会性ないし反道徳性に着目し、これに対する制裁として科せられるものであるに反し、法四三条の追徴税は、単に過少申告・不申告による納税義務違反の事実があれば、同条所定の己むを得ない事由のない限り、その違反の法人に対し課せられるものであり、これによつて、過少申告・不申告による納税義務違反の発生を防止し、以つて納税の実を挙げんとする趣旨に出でた行政上の措置であると解すべきである。法が追徴税を行政機関の行政手続により課すべきものとしたことは追徴税を課せらるべき納税義務違反者の行為を犯罪とし、これに対する刑罰として、これを課する趣旨でないこと明らかである。追徴税のかような性質にかんがみれば、憲法三九条の規定は刑罰たる罰金と追徴税とを併科することを禁止する趣旨を含むものでないと解するのが相当であるから所論違憲の主張は採用し得ない。」

なお、本判決は、追徴税は法人税そのものだという下飯坂裁判官の補足意見があるほか、全員一致のものである。

(解説)

一 わが国は、直接国税に関して申告納税制度をとつたが、この制度を確保するために、所定の期限内に申告書を提出しなかつたり、期限内に申告書を提出しても税額が過少であつたり、課税標準等の計算の基礎となる事実を隠ぺいまたは仮装して申告したりする者に対して、一定の金額を追徴することにしている。これが、無申告加算税、過少申告加算税、重加算税で、申告納税を怠つた者に対する制裁的意義をもつている(国税通則法六五、六六、六八条)本件で問題となつたのは最後の重加算税で、当時の、昭和二五年改正前の法人税法では、追徴税といつた(同法四三条)。

ところで、法人税法は、詐偽その他不正の方法で法人税を免れた者に、逋脱犯として刑罰を科している(同四八条)。そこで、この構成要件にあたる者は、逋脱犯としての刑事の制裁と同時に、重加算税(追徴税)のかたちで一定の金額の納付が要求されることになる。この重加算税は、現行法では納付すべき税額の三〇パーセント、本件当時は二五パーセントで、脱税額のいかんによつては、本件のように相当な巨額に上ることもあるので、脱税者に罰金と同じ苦痛を与えることになり、または罰金と重ねて徴収すると苛酷な結果にもなる。ここから、憲法三九条の二重の問責の禁止に触れるのではないかという問題が生ずる(本件は、逋脱犯としての処罰を受けた後追徴税を課されたことを問題にしたが、逆の場合も問題は同じである。最判昭和三六・五・二刑集一五巻五号七四五頁、同昭和三六・七・六刑集一五巻七号一〇五四頁参照)。

二 憲法三九条は、「重ねて刑事上の責任を問はれない」と規定する。これは二重の危険の原則を規定したものだが、刑罰を科するための訴追の危険を禁止した結果、実体法上の刑罰じしんもむろん重ねて負わせることはできない。ただ、ともかくも、刑事手続の結果科される刑事の制裁でなければならない。したがつて、弁護士法の懲戒処分は、刑罰でないから、それを受けた後、同一行為について有罪判決を言い渡してもよいし(最判昭和二九・七・二刑集八巻七号一〇〇九頁)、法廷等の秩序維持に関する法律による制裁は、「司法の自己保存のための司法に内在する権限に基づくもので、刑事的・行政的処罰のいずれにも属さない特殊の制裁」だから、同法による監督を言い渡したのち、刑事の訴追をしてもよい(最判昭和三四・四・九刑集一三巻四号四四二頁)。

もつとも、形式的に刑罰でなくても、実質的にみて、刑罰に類する制裁を、刑事に類する手続で科する場合は、三九条の問題になるといつてよい(例えば、少年法の保護処分、同四六条参照)

三 そうすると本件の場合も、刑罰かどうかが問題のポイントになる。上告趣意は、追徴税の原因は不申告・不納税ということで逋脱犯と同じであり、「事実を隠ぺい又は仮装」ということで構成要件も同じだ、その上、巨額に上るから罰の本質である害悪の実体からしても罰金と同視すべきだという。これに対して判旨は、申告納税の懈怠に対する制裁という意疑は認めながら、行政上の措置にすぎないという立場をとつた。この点は、判決文に詳細な理由が展開されているように、判旨の方が十分説得力のある議論だと思われる。そうすると、こうして二重問責だとして問題とされている一方が刑罰でなくなれば、もはや三九条の問題はなくなつてしまうようにみえる。

しかしそうではない。判例は、かつて、事後法の禁止に関しては、地方議会の議員に対する懲戒処分も類推すべきだとの態度をとつた(最判昭和二六・四・二五民集五巻五号三三六頁)。三九条の適用はなくても、準用の有無は考えてみなければならない。憲法三一条以下は、刑事手続に関する保障であるが、その他の場合に類推しなければならないことが多い。例えば、逮捕や捜索・押収の規定がそうであり、黙秘権や事後法やこの二重問責の規定もそうである。

従来の行政法学者の考えによると、逋脱犯の刑罰、とくに罰金刑は、一般の刑事犯のように、行為の反社会性・反倫理性を基礎として違反行為を違反行為として制裁する通常の刑罰とは本質を異にする。それは、国庫の収入を確保するという目的から、納税義務違反を予防する政策的措置で、科されるのは、形式的には刑罰であるが、実質はむしろ不法行為に基づく損害賠償だという。この考えによると、追徴といい逋脱犯といつても、同じ本質をもつた二つの租税収入確保の手段にすぎないもし原因行為が同じなら、二重に賠償をさせることになる。しかし、追徴税は罰金ではないにかかわらず相当な額にあがるのだから、憲法三九条の趣旨からすると、これはやるべきことではないか。

四 これに対して、逋脱額の何倍という古い定額刑主義が改められ、懲役も加えられて、犯情によつて刑の量定ができる現在では、逋脱犯は純然たる刑事罰の加えられる、むしろ刑事犯ともいうべきものだという主張がある。そして、一は刑事の処罰、他は行政上の措置で、目的も違うから、二重問責にならないとする。

しかし、たとえ逋脱犯が刑事犯だということを認めるにしても、それは租税収入確保という究極目的のための手段であることは争えない。しかも、刑事犯といつても、国家の作つた(承認した)規範の違反で、それは国により社会により違うから、犯罪はみな一種の行政犯だということさえいえる。国家は、一定のポリシー実現のため幾つかの手段を創造することができる。本件の場合、徴税権確保のための手段として、追徴税があり逋脱税があるということは、疑いがないと思われる。そうすると、同じ国家目的のために、個人に二重の負担を課するは、合理的ではないのではないか。こうして、たとえ逋脱犯を刑事の犯罪と解したとしても、同じように三九条の準用が考えられなければならない。したがつて、逋脱犯として処罰するときは、追徴税等を納付したことを実質的に考慮して、量刑すべきもののように思われる。(つまり、 脱犯の規定が完全な適用をみるのは、租税を逋脱して納付しない場合を考えているというべきだろう)。

(参考文献)

本件判例批評・・・藤木・行政判例百選一〇七事件

板倉・租税刑法の基本問題

(田宮裕 北海道大学助教授 ジユリスト臨時増刊憲法判例百選一二八頁以下)

追徴税(税加算税)が法人税そのものであるという論の暴論であることはいうまでもない。重加算税が、税の名目を有するにかゝわらず制裁であり、処罰であることはすでに述べた。過少申告加算税、重加算税が、本件について課されているが、これは申告納税制度のために存するものではなく、一般的に納税を怠つた者に対する制裁として存するものである。国税通則法六五条、六六条、六八条によつても、税ではなく、行政罰であり、過料であり、制裁であり、処罰であることは明らかである。

法人税法では、重加算税を定額主義によつて納付すべき税額の三〇パーセントとしている。しかし、これは、過少とされた法人税を納入し、その上高利率計算による延滞利子税を納入し、その上過少申告加算税を納入した上で、さらに課されるのである。そしてその金額は後記するように巨額に上り、刑罰以上の刑罰の実質をそなえているものである。

これは、脱税者にすでに罰金と同じ苦痛、場合によつては罰金以上の苦痛をあたえていることはいうまでもない。しかるに、かりに原判決のような二千五百万円の罰金を重ねて徴収すれば、苦痛を通り越して苛酷な結果となる。

田宮助教授は、(一)弁護士法の懲戒処分のほかに有罪判決が言渡される例、(二)法廷等の秩序維持に関する法律による制裁のほかに、刑事の訴追が行われる例をあげているが、法人税法違反のばあいにおける二千五百万円の罰金は、すべての制裁が課せられた後のものであり、本件のばあいの苦痛とか酷は、右(一)(二)におけるものと全く異り、言語に絶するものがあることを看取されたい。

形式的に刑罰ではなくても、少年法四六条の保護処分が行われていたならば、実質的にみて、刑罰に類する制裁を科されたものとして、憲法三九条の精神に帰つて考察することを要すると同じように、法人税法において規定した各種の課税ののちに、重加算税の制裁をうけているばあいは、武相砂利株式会社に対して二千五百万円の罰金を科することは、害悪の実質において、不当にか酷となり、憲法三九条の精神に帰つて考察することを要するのである。単に行政手続であるからということは、もつとも許しがたい見解である。税の名目、行政手続で正当化されることを許さないのが、憲法三九条の精神である。また、憲法三一条以下かような強引な見解に対しては、その保障機能を失わないことを示すに至るであろう。

重加算税が刑罰の形式で規定してなければ、一切の問題は解決されるとすべきではない。最高裁判所民事判例集五巻五号三三六頁以下によつても、刑罰に関する事後法の禁止規定は、その精神を地方議会の議員に対する懲戒罰の制裁にも類推すべきものとした。この論理からすれば、本件の武相砂利株式会社に対する罰金は、憲法三九条の類推のもとに難に帰するか、きわめて少額であるべきこととなろう。すなわち、三九条の適用がかりにないとしても、三九条の準用は当然に考えなければならぬというのが、右の判例の趣旨であろう。田宮助教授の「憲法三一条以下は、刑事手続に関する保障であるが、その他の場合に類推しなければならないことが多い。例えば、逮捕や捜索・押収の規定がそうであり、黙秘権や事後法やこの二重問責の規定もそうである」という見解に従うべきである。本件をして二重問責の疑いから解放せしめようとするには、原判決の巨額の罰金刑を取消し、極めて少額のものとするほかに、何の方法もないであろう。

重加算税は罰金ではないとせられるにもかかわらず、おどろくべき巨額に達するのであるから、憲法三九条の趣旨からして、重ねて巨額の罰金を科すべきではないのである。

本件のばあい、国家の徴税権確保のための手段として過少申告加算税があり、延滞利子税があり、その上重加算税もあるのであるから、その同じ国家目的のために重ねて武相砂利株式会社に二重の負担を課すのは合理的ではない。武相砂利株式会社は極めて少資本の会社であり、財産もなく、このような三重四重の巨額の納入はできるわけがない。ただ、国庫の都合を主張する税務当局のため、増資または増資を重ね、その増資の払込を吉村が借金した金で行い、会社に入金して、直ちにこれを税務署に納入することをくり返している。

これら三重四重の負担や制裁のうち、本件法人税法違反を刑事犯罪と断定してみても、憲法三九条の準用を考えざるをえないということは変らない。したがつて、脱税犯に対する刑事法廷の量刑は、不足法人税を完納したことを考慮し、延滞利子税をいかに調達し、いかにして納付したかを考慮し、過少申告加算税がいかなる苦痛をあたえたか、果して誠実に納付したかを考慮し、重加算税という行政罰のあたえた苦痛を調査考慮し、しかるのちに量刑すべきものである。すなわち、法人税法違反の刑事罰規定が完全な適用をみるのは、租税をほ脱して納付しない場合である。それが法人税法の精神であるから、それと全く異る本件は武相砂利株式会社に対するきわめて軽い罰金であるべきである。起訴そのものが法の誤解のもとになされたと断定しても、決して過言ではない事案である。

次に、刑事罰が問題とせられる前の各種制裁的納税が、いかようにして行われたか、については具体的に記述する必要があろうと思う。事件発生後の納税状況を明らかにしたい。

第五 事件発生後の納税状況

今回の事件で、現在武相砂利株式会社が重加算税等を含めて税金の決定を受けた総額は、一億七千万円余と、吉村被告自身が気の遠くなる様な莫大なものであるが、国税局の調査上の数字ははじめから全部認める態度に出たのでこの計算は法規に従えば止むを得ないのであるが、この税金をどうして完納するか、重大な苦痛があることは当然である。

税額が決定された昭和四一年の三月以降非常な苦心を払つて漸やく納付しました金額は、昭和四二年三月現在一億三千余万円であつて残りは四千万円である。

昭和四二年三月以降も毎月国税局に百万円、神奈川県に百八十一万五千円、厚木市に四十五万円合計三百二十六万五千円宛を毎月末納入しなければならない。しかもこれが昭和四四年三月迄とその後二ケ年半に亘つて毎月毎月連綿と続いていくのである。吉村は力の限り奮斗して納めてゆく決心でいる。

吉村の毎日は税金と取組みこれを何とか納め様と精根をつくして居る。最近は心身共につかれ果て神経衰弱気味となり、時には死にたいと思うことがしばしばであるという。

毎月末納入する税金は、国、県、市へそれぞれ約束手形を取られて居るので、一回でも期日に不履行すれば、会社の全財産は直ちに差押へ競売の処置を受け、凡ての運営はそれまでとなつてしまうのである。と同時に、吉村としては個人保証しているので、共に破産する運命に置かれて居る。

会社は本年三月より五月に間に、国税局に今回の事件に関する税金を約九千万円近く納めたのであるが、この調達には吉村個人所有の土地、山林、証券八千万円相当を売却しこれに充当したのである。この売却代金は直ちに吉村の個人所得となる訳で、四二年三月には約三千万円程度の税を吉村個人として納めなければならないのであつた。一体どうしてこれを調達するか一時は途方にくれていた。

現在吉村は、毎月其の月一ケ月宛の計画をたて先の事は考えない、先々の事を考えると全く生きる自信がなくなるというありさまである。しかし死んではだめだ何んとか事業と取り組み、この難関を切り開いてゆこうと、四二年十月満六十三才のたん生日を迎えた吉村は、老骨にむち打ち死にものぐるいに闘つている。

この様な不始末を起こすと、銀行其の他各金融機関は当然警戒して締め出しをする。口ではうまい事を言つていても、なかなか貸し出等はしてくれない。ここに問題があり一属事業経営の困難さが加重され、現在でも今日までのことを考えて見ると、毎月の税金を納めながら、よくも持ちこたえているかと吉村自身自分自らを認めている有様である。

以上

第一 原審証人堀口一己、同西山三吉の証言について

第二 適用法条の構成要件としての不明確ないし違憲の疑いについて

第三 両罰規定により武相砂利株式会社に刑を科したことの違法と違憲と不合理について

第四 武相砂利株式会社に対する二千五百万円の罰金言渡は憲法三九条、三一条、三二条に違反する疑いについて

第五 事件発生後の納税状況について

述べてきたのであるが、憲法ないし憲法の諸原理に違反している疑いのある場合には、被告人(この場合武相砂利株式会社)の利益に解釈することが、刑法の基本原則である。すなわち、すべては、武相砂利株式会社の刑の量定を軽きに変更すべき法律の根拠にほかならない。いうまでもなく、刑法は被告人に不利益な拡張解釈をゆるさないのであり、被告人に利益な拡張解釈はゆるすのである。疑わしきは軽きに従うこと、これが刑法に特有の原理であり、他の法律において然らざるにもかかわらず、刑法においては絶対の原則である。被告人の利益に、すなわち軽い刑に原判決を変更せられることこそ罪刑法定の理念と原則にそう唯一つのみちである。

原審記録にはいつている被告人の上申書により被告人の納入した各種税金については、その大要が記載されているので、これを知ることができる。しかし、税法違反については、被告人、被告会社の納税がいかように行われたか、行われているかについて、詳細な理解が、とくにのぞましい。国税局や税務署が、同時に刑事裁判も行うのであれば、このことは、それほど重要でないかもしれないが、全く別個独立の司法裁判所が、あらたに刑の量定をするのであるから、形式的な科刑では、税法罰則の本旨を失うことがうれえられるのである。納税状況に関する原審記録にある各上申書は何とぞ、十分に検討していただきたい。それにより、科刑以前に、被告人、被告会社は、いかに苦痛をなめているか、いかに誠実に納税しているか、税法違反摘発後の苦痛は、量刑ことに多額の罰金を科する前に、ぜひとも考慮、注目、していたゞき、罰金のあたえる苦痛の程度をはかつた上で、量定していただきたい。

第一審においては、担当税務官高木氏のとりしらべが行われなかつた。やむを得ない事由によつて第一審の弁論終結前に取調べができなかつたのであり、単に上申書の形で記録に片りんをのこすに止まつたのであるが、控訴審においては、同証人によつて十分に証明することのできる事実であるから、本件控訴申立の理由があることを信ずるに十分ならしめるものとして、これを取調べ第二審判決に援用せられたいのである。

その納税状況は、訴訟記録および原裁判所において取調べた証拠に一部分のみあらわれている事実であるが、そのわずかな一部では、納税の真の状況が理解されず、納税の苦痛の程度がわからないので、何にもならない。そういう意味で、いままでの証処にあらわれている事実以外の事実ということもできるかも知れないが、この判決主文に重大な影響のある課税事実について、延滞税、重加算税、納入の命をうけた本税、過少申告加算税、県民税、事業税、市税その他について、いくばくの金がいかに準備されて納税されたか、その納期、その納税にあたつての誠実さなどは、それなくしては、税法違反の科刑が不能といつても過言ではないほど重要な関連をもつ事項、事実である。

その事実をそ明する資料として、「重加算税等明細表」と「結審後の重加算税等の納入について」とをつぎに添付するのであるが、これは裁判官の更迭などのやむをえない事由によつて、原審で申請しながらとりしらべがなかつた高木証人、あるいは、結審をいそいだため、やむを得ない事由によつてその証拠の取調を請求することができなかつた内容の幾分をそ明している資料として添付し、理解をえたいものに属する。

通常の経過をもつてすれば、武相砂利株式会社は、当然破産状態にあり、債務超過、特別整理、特別清算により法人消減をきたすべきものである。そうであれば、以下に明細を表記してある延滞税も、重加算税も、市税も、県税も、全く納められることなく終つているはずである。こういう経過をたどつたときに、法人税法違反事件は、その本来の姿をあらわすものと解すべきである。すなわち、法人税法の罰則はこのときこそ、その必要性の本質を明確に表現するであろう。本件は、原判決によつて誤つて、この場合の量刑がなされてしまつた。

ところが、事実はこれに反し、非常な苦痛のもとに、過大な制裁課税の支払が強行されて今日に至つており、今後も、毎月数百万円に上る税が、数年にわたり、毎月納められていくのである。

重加算税等明細書

国税

<省略>

県税(県民税、事業税合算)

<省略>

市税

<省略>

総合計 95,868,910 14,959,490 25,633,720 136,462,120

起訴された税額と納入の命を受けた税額との差額

<省略>

納入の命を受けた税額が重加算税等の算定の基礎となつている起訴された税額より6,373,930-超過している。

結審後の重加算税等の納入について

<省略>

右の「重加算税等明細表」にある通り、国税すなわち武相砂利の法人税において、六千六百八十八万三千六百八十円を納めれば足りるところを、(1)延滞税として、さらに九百四十九万四千八百円を科され、(2)制裁として、処罰として、行政罰として、重加算税二千六万二千八百円を科されて、合計九千六百四十四万千二百八十円を国庫に納めることとされる。

そのほかに、県税三千四百十三万五千八百八十円と市税五百八十八万四千九百六十円を科されたので合計一億三千六百四十六万二千百二十円の納税となつた。そのうち、制裁として処罰として刑の量定に直接の増減を生ずべきもののみをみても、重加算税二千五百六十三万二千七百二十円もある。

また、「起訴された税額と納入の命を受けた税額との差額」の表に明らかな通り、全く原因不明の数字の相違が、原審以来明らかになつている。このとり調べなしに、二審判決を行うことは、づさんのそしりを免れないと思う。高木大蔵事務官を証人にわずらわしたい所以の一つである。

前記の「結審後の重加算税等の納入について」に明記してある通り、原審判事の担当変更、民事部転入で結審された後も、控訴審の現在時点まで、納入がつづいている状況はぜひとも、控訴審判決に関連せしめての考量を要する。併せて、現時点で残存している納税と武相砂利の担税能力の概略もぜひご了知の上で判決せられたい。

税金は制裁ではない。刑事罰も行政罰も民事罰も懲戒罰もひとしく制裁である。税金は制裁ではないが科刑(制裁たる刑事罰すなわち罰金を科す)に際して、税法違反では必ずしんしやくを要する。重加算税などは税金ではなく行政罰であるが、本件法人税法違反事件の科刑に際しては、必ずしんしやくする必要があるものとする。それによつてはじめて税法事件の罰金の量定ができるものと信ずる。

自 昭和40年4月1日

至 昭和41年3月31日

第15期決算報告書

厚木市厚木2980番地

武相砂利株式会社

代表取締役 吉村武雄

貸借対照表

昭和41年3月31日現在

<省略>

<省略>

損益計算

自昭和40年4月1日至昭和41年3月31日

<省略>

自 昭和41年4月1日

至 昭和42年3月31日

第16期決算報告書

神奈川県厚木市旭町3丁目9-18

武相砂利株式会社

代表取締役 吉村武雄

貸借対照表

昭和42年3月31日現在

資産の部

<省略>

負債の部

<省略>

資本の部

<省略>

損益計算書

自昭和41年4月1日・至昭和42年3月31日

経常損益の部

<省略>

営業外損益の部

<省略>

利益処分案

<省略>

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